紅瞳の秘預言 71 拉致

 譜陣を通り抜け教団本部に戻った一行は、礼拝堂へ戻ったところでトリトハイムを見つけた。導師であるイオンの代わりに様々な用件をこなしているせいか、その手の中には大量の書類が抱え込まれている。

「トリトハイム! ちょうど良かった。急ぎの用件があります」

 その書類が視界に入っていないかのように、イオンはトリトハイムを呼び止めた。緑の髪の少年に呼ばれては拒否も出来ず、詠師はその場に立ち止まる。

「はい。導師、何か」
「ザレッホ火山のセフィロトに、ヴァン・グランツとリグレットが現れました。こちらには顔を見せていませんか?」
「は?」

 イオンの言葉を一瞬理解出来なかったのか、トリトハイムは目を瞬かせた。だがすぐに思考を切り替えたのか、書類をしっかりと抱えたまま首を振る。

「いえ、そのはずはありません。破門以来彼は第一種警戒対象となっております。末端の兵に至るまで、ダアトで彼を目にしたならば即座に通報するよう命令を徹底しております故。報告も上がっておりませんし」
「……上手く逃げられたな」

 アッシュがちっと舌を打つ。サフィールは僅かに血がにじんだ指先で眼鏡の位置を直し、きりと歯を噛みしめた。そんな僅かな気配を背に感じながらイオンは、真剣な眼差しで言葉を紡ぐ。

「ジェイドがヴァンに攫われました。ヴァンは、自身の企みに彼を利用するつもりでしょう」
「な……まさか!?」

 詠師の顔色が、あからさまに白く変化する。狼狽えかけた彼の意識を引き戻したのは、がつっと床を叩いた音叉状の杖。その持ち主である緑の髪の少年は、一瞬とて視線を逸らさぬまま更に言葉を続けた。

「その所業故に教団を破門になった男のしでかしたこと、これは我ら教団の失態と言っても過言ではありません。トリトハイム」
「はっ」
「神託の盾の全力を以て、ヴァンの本拠地を突き止めてください。カンタビレにも連絡を。必要とあらば、ピオニー陛下には私が頭を下げます」

 毅然とした、導師の命令。ただ独断で発せられたことだけは間違いないその命に、さすがにトリトハイムも僅かに動揺を見せる。
 素直に応じて良いものか。
 大詠師モースは何と言うか。
 預言を好まぬマルクトの皇帝は。

「は、ですが……」
「この教団の最高指導者は誰ですか? もしモースが抵抗するようであれば、私の名において彼の権限を一時停止しても構いません。やりなさい」

 詠師の動揺を、イオンはその言葉だけで吹き飛ばして見せた。彼には珍しく強い口調で放たれた言葉に、トリトハイムはびくりと肩を震わせる。この少年が時折見せる強固な態度は、その威厳と相まってこの詠師に拒否権を与えない。
 そうしてイオンはもうひとつ、その前に出されたものよりはずっと簡単な命令を配下に与えた。

「それと、彼らのために宿屋に部屋を手配してください。今日はここで休ませたい」
「承知いたしました。即刻手配いたします」

 ほっとしたように息をついて深く頭を下げ、トリトハイムは書類を手にしたままその場を走り去った。その背を見送るイオンに声を掛けたのは、実兄の所業に衝撃を受けていたティアだった。

「イオン様、急がないのですか? 兄は大佐を……」
「ヴァンはジェイドを、すぐには殺しませんよ。そのつもりなら、わざわざ攫ったりはしません」

 自身ヴァンの目論見によって生み出されたレプリカであるイオンは、それなりに彼の考え方を理解している。故に、ここはひとまず休むべきだと言う結論を弾き出していた。

「利用価値があるから連れて行ったんです。彼は合理的なものの考え方をしますから」
「そう、かな……」

 ずっと前、互いの交流不足からルークたちとジェイドが仲違いしてしまったことがあった。あの時のジェイドの立場に今、サフィールが置かれているのでは無いかとイオンは危惧している。ジェイドよりもずっと利己的なものの考え方をするサフィールだから自己犠牲に走ることは無いだろうが、それでも内輪もめは今後の行動において不要な問題を引き起こす可能性がある。そうならないためには、サフィールも含めて全員が一度頭を冷やす必要があるだろう。
 だからひとまず皆を休ませるため、イオンはルークを引き留める説得の言葉を紡いだ。

「焦っても、良い展開にはなりません。ジェイドの居場所はローレライ教団の全力を以て突き止めて見せます。だから、今は休みましょう」

 真剣なイオンの説得にルークはほんの少しだけ考えて、それから不承不承「分かった」と頷いてくれた。


 与えられた個室で、灯りも付けないままサフィールはじっと虚空を見つめていた。
 イオンが取りなしてくれなければ、止めるためにとは言え己がルークを相手に一戦交えていてもおかしくなかった。それに気づいていたのか、数室確保された宿の客室のうちの1人部屋をイオンはサフィールに、と譲ってくれた。ルークは子どもたちと一緒にいれば、きっとその内落ち着くだろうからと。

「……私が一番、頭に血が上ってるんですよ。分かってます」

 ぽつりと呟かれた言葉は、サフィール以外誰の耳にも届かない。それが分かっているからか、銀髪の譜業学者がぽつりぽつりとこぼす言葉は小刻みに震えていた。ずっと抑えていた感情が、ここに来て限界を迎えているのだ。

「ジェイド……お願い、ちゃんと守りましたよ。褒めてください」

 凍り付いていた表情が崩れ出す。レンズの奥で瞳が潤む。

「ちゃんと、ルーク、守りましたから」

 そこにいないジェイドに見せるかのように、無理矢理笑顔を形作る。

「一度だけ、って約束でしたよね。次からはもう、知りませんよ?」

 感情の伴わない笑みはすぐに消え去って、薄い唇が悲しみの形に歪む。

「ルークがどうなっても、世界がどうなっても、私は貴方を選ぶんですから……っ!」

 ついに限界を越えたサフィールの感情が、叫びの形で吐き出された。途端、両の目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
 子どもたちの前で、こんな情けない姿なんて見せられない。自分はこの中で一番年上で、だから子どもたちを導かなければならないから。

「ジェイド……ごめんなさいっ!」

 謝罪の言葉を吐きながら、サフィールはその場にうずくまった。頭を抱え、銀髪を掻きむしりながらひっく、ひっくと肩を震わせる。
 今いるこの部屋は1人部屋で、誰も見ていない。誰にもきっと聞かれていないから、今だけ彼は『ジェイドの幼馴染みの、気弱なサフィール』に戻る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 何度も吐き出される、嗚咽混じりの謝罪の言葉。
 それからしばらくの間、サフィールがその場から立ち上がることは無かった。


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