紅瞳の秘預言 72 苦悩

 こんこんと軽いノック音がした後、ほとんど音を立てずに扉が開いた。サフィールが1人でいるはずの室内をこっそりと伺ったのはアニスである。いつものようにトクナガを背中にぶら下げて、少女はとことこと入室して来た。

「ディストー。そろそろご飯にしよー」
「……あ、アニスですか?」

 あからさまに作ったことが分かる明るい声で名を呼ばれ、床の上で膝を抱えて座っていたサフィールは慌ててがばっと立ち上がった。顔を逸らし、眼鏡を外して涙をごしごしと拭くその姿を、アニスは軽く視線を逸らして見ないふりをする。
 ぶるりと頭を振るい、普段通りの顔を作り直してからサフィールはアニスに向き直った。それでも目元は軽く腫れており、彼がずっと泣いていたことが一目で理解出来る。人より白い肌が赤く染まっているのだから、致し方のないことだろう。

「わ、わたしは要りませんからっ。アニス、貴方は食べてらっしゃい」
「そんなこと言って、今の顔ルークたちに見られたく無いだけでしょ?」

 それでも強がった言葉を口にする年長の友人に、アニスはにいと意地悪そうな笑みを浮かべて答えてやった。ぎくりとあからさまに表情を変えるサフィールが自分の感情を隠せない性分であることくらい、付き合いのそこそこ長い彼女は知っているのだ。

「んもー。ディストが大佐のこと大好きなんだってことくらい、みんな知ってるよう」

 故に彼がパッセージリングの間で見せたあの鬼気迫る表情も彼自身の感情であることを、アニスは知っている。ジェイドをヴァンの手に渡したままにすることが彼の本意で無いくらい、誰にだって分かる。

「だからさ。ディスト、きっと大佐にお願いされたんでしょ? ルークを守ってくださいって」

 それでも敢えてサフィールがあの場でヴァンを見逃した理由をアニスは、他に思いつかなかった。

「そうでなきゃ、あんたが大佐よりルークを優先する理由無いもん。ティアなら何も言わなくたってルーク優先だろうけどさー」

 サフィールがびくりと肩を震わせたのは、きっとアニスが指摘した理由が図星だったからだろう。本当に分かりやすい感情表現だと、黒髪を揺らしながら少女は思う。

「それに、あそこでみんなで主席総長に掛かってっても、何か勝てる感じがしなかったって言うかー。まだまだあたしたち、修行が足りないって言うか」

 自覚はあった。人数だけで言えば断然こちら側の方が有利だったはずなのに、ヴァンとリグレットのたった2人を相手にして自分たちは完全に気圧されていた。ジェイドが無事であったなら……とは少しだけアニスは思ったけれど、それでもあのヴァンと戦ってまともに勝てたかどうかは分からない。
 それはつまり、まだ自分たちが彼を倒せるほどに強くあれないからだろう。

「だから、悪役押し付けてごめんね。あたしたちがもっとちゃんと回り気にしてれば、大佐無事だったはずだもんね」

 年齢が20以上も違う彼ら2人は、身長差もそれなりにある。だからアニスは、立っているサフィールの腰に腕を回してしがみつく形になった。
 自分が今のイオンに取り立てられたことで他の導師守護役から虐めを受けていた時、サフィールは何かと力になってくれた。トクナガに譜業を組み込み戦闘力としてくれたのも、それで彼女が虐めに対抗出来るようにとの心遣いからだ。また、父母を人質に取られる形で間諜役を強制されていた時も、サフィールが2人をダアトから連れ出すことでその苦痛から解放してくれた。
 だのに、自分はそんなサフィールに恩返しが出来ない。アニスが生まれるよりずっと前から彼が慕っている親友を、すぐ傍にいながら守ってやることすら出来なかった。

「そ、そんな、私は、何も」
「良いよ。ディストに無理させちゃったことくらい、分かってるし」

 アニスの頭上から、サフィールの狼狽えた声が降って来る。少女は彼の服に顔をくっつけて、自分の表情を隠した。お互いに子どもだな、と思いながら。

「……いっかいだけ、なんです」

 やや間があって、かすれた声がぽつりと落ちた。顔を離し、きょとんと目を丸くするアニスの視界の中で、色の薄い髪の中に表情をけぶらせながらサフィールはぼそぼそと呟く。

「一回だけ、自分よりルークを選んでくれと。そう、頼まれたんです」
「……そっか。やっぱり」

 推測通りの答えに、アニスは深く頷いた。ジェイドがルークを殊の外慈しみ、大切に思っていることは旅路を共にしている皆の間では周知の事実である。その彼がサフィールに自身よりもルークを守れと頼んでいても、何らおかしくは無い。
 そうで無ければ、ジェイドの左の腕に僅かな麻痺は存在していないはずだから。

「じゃあ、もう次は大佐最優先なんだよね?」
「当然です。当たり前でしょう? 私はジェイドのために働くって決めたんですから」

 じっと自分を見上げて来る少女をちらちらと視界の端で伺いつつ、サフィールの鼻息は荒い。そこに普段通りの彼を見てアニスは、ほっと息を漏らした。ゆっくり腕を解き、数歩下がってから改めてその顔を見上げる。

「やっぱりディストはそうでなきゃ。音機関と大佐大好きじゃなきゃ、ディストっぽくないよ」

 力無く笑うアニスの背中で、トクナガが彼女の言葉を肯定するように揺れる。白い指先が眼鏡の位置を直したことでサフィールの表情を少女から伺うことは出来なかったけれど、それでもアニスは言葉を続けた。

「……きっと大佐、助かるよ。あたしのパパやママだって、アクゼリュスの人たちだって助かったんだもん」

 彼女が口にした言葉はサフィールにだけでは無く、きっと自分自身にも言い聞かせる言葉だったろう。一言一言を区切り、力を込めての発言だったことでサフィールにもそれは分かった。
 と、くいと手が引かれた。アニスは両手でサフィールの右手をしっかりと掴み、彼の顔を見上げて笑っている。

「ね、ディスト、食堂に行こうよ。ご飯食べてしっかり寝て体力回復しないと、あの腹黒総長から大佐取り返すなんて出来ないじゃん」
「……そうですね」

 腹が減っては戦は出来ぬ、とは良く言ったものだと心の中だけで呟いて、サフィールはアニスの提案に乗ることにした。今ここで悶々と考え込んでいても、きっとろくな案を考え出すことは出来ないだろう。ならばジェイドの捜索は神託の盾に任せ、自身は体調を整えて次なるセフィロトに備えなければならない。

 ねえ、大佐。
 ごめんね。
 少しだけ、頑張って。

 絶対助けるから。

 自分を食堂へと引きずって行く黒髪の少女がそう心の中で誓ったことに、銀髪の学者が気づくことは無かった。


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