紅瞳の秘預言 72 苦悩

 私には、もう兄さんが分からない。

 ティアは割り当てられた客室でベッドの端に座り込み、膝の上でぎゅっと拳を握りしめていた。固く閉ざされた瞼の裏に浮かび上がるのは、つい数時間前にこの目で見た光景。
 青い服の軍人を奪って行った兄と、彼を守るため自分たちに銃口を向けた教官。
 彼らの目的は、理解していた。
 預言に支配されたと言っても過言では無いこのオールドラントを救うためにオリジナルの世界を破壊し、預言から解き放たれたレプリカに全てを書き換える。
 目的は分かっていても、ヴァンがその結果に至った思考がティアには理解出来なかった。

「預言が嫌いなら、必死に足掻いて預言から外れようとすれば良いじゃない! どうして世界まで巻き込むの? 滅びるだけが、預言からの離脱の手段じゃ無いのに」

 自分たちが取っているその方法を、ヴァンはきっと鼻で笑っていることだろう。如何に人間が足掻こうと、オリジナルのオールドラントが存在する限り預言から逃れることは出来ないのだと。

「ルークも、アッシュも、イオン様も……大佐も、兄さんにとってはただの道具でしか無いの?」

 ジェイドの意識を奪い、自分たちに対する盾としたヴァンの姿をティアは思い出す。アクゼリュスで意識の無いルークを無造作に扱ったことをも思い出し、何度も首を振った。ユリアシティにいる自分を気遣い、神託の盾に入ってから幾度も顔を見るために帰って来てくれた優しい兄の姿は、もうそこには無い。

「頑張れば、預言は変えられる。私たちにそのことを教えてくれたのはカーティス大佐なのよ、兄さん」

 握った拳が、膝の上でぶるぶると震えている。真紅の瞳の軍人が長い旅路の間何度と無く子どもたちに投げかけて来た言葉を、彼女は自らに刻み込むように口にした。
 鉱山の街は、今は魔界にてローレライの庇護下にある。
 聖なる焔の光は死ぬこと無く、今以てオールドラントの大地に生きている。
 もう世界は、預言から離れ始めている。ティアはヴァンに、そしてリグレットにそれを理解して欲しかった。世界を滅ぼさずとも、預言から離れて生きることは出来るのだと。
 それが叶わぬことだと分かった今、少女にもう迷いは無かった。

「兄さん。いえ、ヴァンデスデルカ」

 きりと奥歯を噛みしめて、ティアは顔を上げた。涙で潤んだ瞳は、けれど決意の色に満ちている。

「世界を残すか、滅ぼすか。きちんと決着をつけましょう」

 さようなら。
 優しかった兄さん、そしてリグレット教官。

 私は、私の道を行きます。
 ルークたちと一緒に。

 声に出すことは無かったけれど、ティアは実の兄とそして姉のような存在の人に、別れを告げた。


「ティア。ティア、いる?」

 どんどんとノック、と言うよりは普通に扉を叩く音が聞こえた。一緒に流れ込んで来た声がティアに、音を発した主の正体を教える。彼女は拳でぐいと顔を拭うと、ベッドから立ち上がった。

「いるわよ。アリエッタ、何かしら?」

 名を呼ぶと、彼女は素直に扉を開けた。その足元で、空色のチーグルがくるくるとした目でティアを見上げている。ぬいぐるみを抱きしめたままアリエッタは、少しだけ小首を傾げた。

「あのね、ルークとガイと一緒に、ご飯食べるの。一緒に食べよう?」
「ルーク、落ち着いたの?」

 アリエッタが挙げた名前に、ティアははっとした。ジェイドを奪われた後一番荒れていた朱赤の焔は、彼を気遣った金髪の養い親と共に気晴らしだと言って宿の外に出て行ったはずだ。どうやらアリエッタとミュウは、その後を追いかけて行ったらしい。

「はいですの。ご主人様、ガイさんと剣のお稽古いっぱいしたですの。それから、いろいろお話ししたですの」
「ディストが一番悔しい、ってルーク、分かってくれた。それに、外殻大地降ろさないと、ジェイドの帰るお家無くなっちゃうんだって」
「そう……良かった」

 意外に上機嫌なミュウと、ぬいぐるみに半ば隠した顔を綻ばせているアリエッタの言葉にティアは、ようやく胸を撫で下ろすことが出来た。

 ルークを初めとした自分たちが、ジェイドを救うために外殻大地降下作業を一時中断したとしよう。だが、相手はかのヴァン・グランツである。彼はレプリカ世界構築のために、向こうに残った六神将や自分を慕う元神託の盾兵士たちを使い、幾重にも計略を張り巡らせているだろう。
 例えルークたちがジェイドの救出に成功したとしても、その時にはヴァンの策略が完成している可能性がある。いや、ほぼ確実に取り返しのつかない所まで進められてしまっているだろう。それはつまり、ジェイドも含めた自分たちの敗北を意味する。世界はレプリカに造り替えられ、自分たち以外の民もまたオリジナルは排除され良く似た別人たちが入れ替わってしまっているだろう。
 自分たちは、オールドラントをレプリカ世界に入れ替えさせないために戦っている。それを、自分を救うためにヴァンの計画を止められなかったと知ればジェイドはきっと悲しむ。彼を取り巻く人たち……ピオニー皇帝やアスラン、マクガヴァン親子やネフリーがもうその世界には存在しないのだから。そこにいるのはきっと、『同じ顔をした別人』なのだ。

「だからね。イオン様の命令で神託の盾が頑張って探してくれてるから、ルークはルークにしか出来ないことをしてってガイ、お願いしたの」

 つたない言葉でルークとガイの会話をティアに伝え終わり、アリエッタはにこっとミュウにも似た笑みを浮かべた。ミュウも大きな耳をくるくると回し、小さな手を精一杯に広げて彼女の言葉を補足する。

「パッセージリングを操作してジェイドさんのお家を守るのは、ご主人様にしか出来ないことですの! ジェイドさん捜しは、カンタビレさんや白い鎧さんたちにお願いするですの!」
「……そうね」

 2人の言葉に、ティアはゆっくりと頷いた。ルークは聡い子だから、きちんと説明すれば分かってくれる……そうティアに言ったのも、そう言えばジェイドだったはずだ。もっとも気が立っていたはずのルークに根気良く言って聞かせたであろうガイの苦労は、並大抵のものでは無かっただろうが。
 それでもルークは、きっと分かってくれたはずだ。ジェイドを奪われてサフィールがどれだけ苦しんだかも、自分たちがジェイドを含めた世界の命運を握っていることも。

「じゃあ、ご飯にしようか。私たちには、まだまだやるべきことがあるものね」

 桜色の頭を撫でてから、空色の聖獣を拾い上げる。そうしてティアは、表情を引き締めた。
 ここで立ち止まっていては、あの優しい真紅の瞳を取り戻せないのだから。


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