紅瞳の秘預言 73 信念

 瞼を開くと、薄暗い室内の光景が目に入った。恐らく自分は今、椅子に座らされているのだろうと言うことがその視界から推測出来る。
 背もたれの後ろに回された手は固定されていて、動かすことが出来ない。足は……固定されていないようだ。ただ、全身に力が入らず立ち上がることは出来そうに無い。
 自分が何故こんな所にいるのか、どうして拘束されているのか、思い出せない。走らせようとした思考は脳内に漂う霞に邪魔されて、そこで動きを止めてしまう。
 ただ、私はここにいるべくしているのだろう。霞の奥からそんな言葉が、ぼんやりとだけれど流れ出して来ている。

「お目覚めかね? 気分は如何かな」

 声を掛けられて、ゆるりと顔を上げる。目の前に立っているのは……誰だろう。きっと会ったことがあるのだけれど、思い出せない。白い衣と鋭い目には、何と無く見覚えがあるから。
 けれど、多分。

「どうした? ……ああ、まだ頭が上手く働かんか。何、すぐに慣れよう」

 私は、この人には逆らえない。

 その言葉だけが、胸の奥にざっくりと突き刺さっている。
 一瞬だけ幻のように垣間見えた赤い髪がすぐに霞の中へと消え去って、代わりに彼の声が霞の奥から響き渡って来た。

「貴公には、やって貰わねばならん任務があるのだが……その前に、ひとつ尋ねたいことがある」

 顎を持ち上げられて、薄く笑みを浮かべている彼と眼が合う。その眼に魅入られたように、浮上したばかりの意識がくらくらした。

「貴公はあの忌まわしきローレライから、なにがしかの預言を受けているのでは無いのかね? それをこの私に、伝えては貰えないだろうか」

 低く落ち着いた声が、私の耳からするりと頭の中に流れ込んで来る。穏やかな口調は、それでいて拒否を許してはくれない。
 私は彼の要望に応じ、己が知る全てを口にせねばならない。

 ローレライから受けた預言。
 そうか、私が数年後の未来から受け継いだ『記憶』は預言士から見ればそう言うことになるのか。

 私は、この人には逆らえない。
 秘匿すべき事項すら、全て渡さなくてはならない。

 私はまた、罪を重ねる。
 ごめんなさい。

 ──誰に?


 ローレライ教団本部は、ザレッホ火山におけるヴァンの出現とそれに連なるイオンの命令などを受け、人の動きが増えたためにざわついている。兵士たちが行き交う中を、1人の信徒が必死に人を避けながらすたすたと足早に歩いていた。手に持ったトレイの上には、1人で食べるにはかなり多すぎる量の食事が乗せられている。
 彼は周囲の会話に時折耳を澄ませながら、ほとんどの信徒が出払ったのか人気の無い教会内の一室までそのままやって来た。そこで初めてぐるりと視線を巡らせて、トレイの重心を慎重に片手側に寄せてから空いた手で扉をノックする。

「私です。ただいま戻りました」

 そう言いながら扉を開け、彼はするりと室内に滑り込んだ。トレイをテーブルに置いている間に、緑の髪を持つ少年が足音も立てずに入口へと駆け寄り扉を閉める。それからくるりと振り返ったその表情は、どこかふて腐れているようだった。
 鳥の仮面も着けずにこの部屋にいる彼は六神将の1人、『烈風のシンク』。

「遅かったじゃないか、ライナー」
「済みません。当直組が動いてたりしてたものですから」

 年下とは言え教団内の地位は自身よりずっと上の少年に軽く頭を下げ、ライナーはテーブルの上に食事を広げる。そこへ、シンクと同じ色の髪を持つ少年がとことこと駆け寄って来た。顔の造作も彼らと良く似た少年は、シンクどころかイオンよりもずっと幼い表情で無邪気に笑う。

「おかえりなさーい。お腹空いたー」
「はい、ただいまです。お食事をお持ちしましたよ」

 ライナーはその子の頭を撫でてやると、トレイの隅に置いてあるおしぼりを彼に手渡した。戻って来たシンクもおしぼりを手に取り、軽く拭き上げる。

「うわあ、美味しそう! ありがとう、ライナー」
「オムライスにグラタンにサラダね。まあまあ良いんじゃない?」

 喜びに顔を輝かせる少年と、つまらなそうに一瞥しながらもどこか満足げな少年。同じ容姿を持つ2人だが、その感情表現には大差があるものだなとライナーは思う。食事を始めた2人の少年を見比べながら、彼は何とは無しに親の気分を味わっていた。
 その目の前でシンクは、サラダに載せられているトマトを鷲掴みにした少年に注意をしていた。

「ほらフローリアン、ちゃんとフォークとスプーンで食べなよ」
「えー、だってめんどくさい」

 シンクは自分と同じ顔の、けれど自分より精神的にずっと幼いこの少年をフローリアンと呼んでいる。正式に付けられた名では無いらしいが、古代イスパニア語で『無垢なる者』の意味を持つその名は少年には相応しいだろう。

「米粒撒き散らかしたりして後で掃除する方が面倒なの。それに、ちゃんとお行儀良く食べられないと外で食事なんて夢のまた夢だからね」
「そうですね。導師やディスト様、ジェイド・カーティスと一緒にお食事するのでしたら、お行儀の良い方が喜ばれますよ」
「えー……うん、分かったぁ」

 シンクとライナーからたしなめられて、フローリアンはこくんと頷くと手を拭き直しフォークを手に取った。未だ見ぬ兄弟であるイオンや、自分にとって親であるサフィールやジェイドと共に食事をするのが、この無垢な少年が今持っている最大の願いである。


 ルークたちと別れた後、シンクはアリエッタの『友達』であるグリフィンと共に密かにダアトへと戻っていた。グリフィンには街の傍で待っているように言い含めた後、少年は街中へと入って行く。
 顔を隠し、マントで全身を覆って巡礼を装えば、教団の本拠地である街に入るにはほぼフリーパスだ。そこから先は、小柄で身軽でもあり教団本部の構造を知り尽くしている彼ならば侵入も容易である。

 実は、モースの所に貴方やイオン様のご兄弟がもう1人いるはずなんです。

 そう己に告げたジェイドの言葉を、シンクは思い出す。彼らが言う『自分たちのもう1人の兄弟』を探し出すために、緑の髪の少年はわざわざこの地に戻って来たのだ。
 何処で生命を落としたのか杳として知れない最初のレプリカ以外は、揃ってザレッホ火山の火口に放り込まれた。もし自分以外の兄弟が生き延びていたとしても、きっと火口付近で身を隠しているだろう。モースが兄弟を見つけたのであっても、そこからさほど離れてはいないはず……そう目星を付けたシンクは、火口と譜陣で繋がっている部屋の周辺を慎重に探った。奥まった場所には使われていない部屋や物置代わりにされている部屋も多いため、かの大詠師が何かを隠すならその辺りだろう。
 やがて人目につかない、奥まった場所に扉を見つけ、鍵を外してそっと開いた。
 そこに、もう1人の兄弟はいた。生成の質素な服を着て、シンプルな木の椅子に腰を下ろしていたその少年は、突然入って来たシンクを見て目を丸くした。もっともそこに突然の侵入者に対する警戒心は微塵も無く、単に知らない人間を初めて目にしたことで驚いただけなのだが。

「あれ? モースじゃない。誰?」

 呆れた。ほんとにいたよ。

 肩をすくめつつ、シンクはフードを外して素顔を見せた。恐らく鏡やガラスで自分の顔を見たことがあったのだろう、シンクよりもイオンに良く似た雰囲気を持つ少年は大きな目をぱちぱちと瞬かせる。やがてその顔に、満面の笑みが浮かんだ。

「うわあ。君はイオン? それともシンク?」
「え?」

 尋ねられた名に、今度はシンクの方が目を瞬かせた。モースがこの少年に自分たちのことを教えていたのかとも考えたが、そこに意味を見出すことは出来ない。第一あの大詠師は、己の信じる輝かしい未来へ突き進むべく……と言えば聞こえは良いが要は自身の目的のために暴走しており、子どもへの心遣いなどなっているとはとても思えないのだ。わざわざこのレプリカの少年に、同じ顔をした兄弟がいる事を教える意味は無い。
 では、誰が教えたのか。その疑問には、少年自身があっさりと答えてくれた。

「ローレライがねえ、僕には兄弟がいるよって言ってたんだ。イオンとシンクって言うんだって」
「またローレライか……ほんとあいつ、何だかんだでちょっかい出してくるよねえ」

 第七音素意識集合体の名を聞くのは、これで何度目になるだろう。ヴァンの下に着いている間は消滅させるべき存在としてだったが、地核で聞いた彼の声は子どもたちを慈しむ親のようにも思えた。


PREV BACK NEXT