紅瞳の秘預言 80 懸隔

 だが、リグレットにとってその一瞬の隙は反撃の好機でしかない。そのことに、アッシュははっと気づいた。意識より先に、身体が動く。

「あくまでも閣下に逆らうなら、ここでお前も滅びろ!」
「リグレット!」

 トリガーを引きかけた彼女の名をわざと呼び、アッシュは斬りかかった。名を呼ぶことで彼女の意識をジェイドから逸らす狙いは、確実に成功した。力任せに振り下ろしたアッシュの剣をリグレットが受け止めるには、両手の譜業銃を重ね合わせて盾にするしか無い。直前に放たれた弾は狙いが甘すぎて、真紅の髪をほんの数本削っただけだ。
 ほんの少しだけ時間を稼ぐことが出来れば、ジェイドの詠唱は完成する。

「断罪の剣よ、七光の輝きを持ちて降り注げ……プリズムソード!」

 苦しそうな息の下から解き放たれた強力な譜術の力は、しかしアッシュたちを襲うことは無い。
 ジェイドが自分たちに掛けている味方識別を外していないことを、アッシュは信じていた。自分やルークを守るために彼が存在しているのならば、いくらヴァンに思考を制御されていようとその思いに背くことはしない、と。
 彼は、自分たちの仲間なのだから。

「きゃ、ああああああああああっ!」

 光の剣が降り注ぐ。その威力に弾き飛ばされ、リグレットはふわりと宙に浮いた。プリズムソードが床に作り出した亀裂の中へと、彼女はゆっくり落ちて行く。

「リグレット!」

 慌ててアニスが、トクナガを走らせた。譜業人形の腕を思い切り伸ばし、リグレットを捕まえようとする。だが、引っかかり掛けた爪をはね除けたのは他でもない、リグレット自身の掌だった。

「ちょっと!」
「──貴様らの世話にはならん! せいぜい、預言の成就を見届けるが良い!」

 目を見張るアニスの視界から、あくまでも彼らと手を携えることを拒否した鋭い瞳と金の髪が消えて行った。裂けた床の間から、ふわりふわりと浮かび上がる記憶粒子の源へと。


 白い詠師服の胸元が、赤く染まる。掌に付いた己の血を確認して、ヴァンはさも愉快そうに顔を歪めた。やがてそれは、いっそすがすがしいほどの笑い声となる。

「く……ははははははっ!」
「兄さんっ!」

 ティアの悲鳴にも似た叫びが空を裂いた。笑いを止め、ヴァンはにいと口の端を歪ませて子どもたちとサフィールを見渡す。死を目前にしていると言うのに、それはまるで己の勝利を確信したかのような表情だ。

「これもまた、死霊使いの預言通りだな……くっくっく」
「そうだとしても、ここを違える訳には行きませんからね。貴方に、オールドラントの未来は任せられない」

 半眼で睨み付けながら、サフィールが答える。
 譜術はほとんど打ち止めに近い状態にあり、子どもたちもすっかり消耗していた。ルークにはこの後外殻大地の降下と言う大仕事が待っていることもあり、これ以上互いに戦闘を続けることは不可能だろうと彼は読んでいる。もっとも、敵であるヴァンは既に致命傷を受けているのだが。

 参りましたね。
 ジェイドの『記憶』通り、みすみす彼にローレライを渡すことになりそうですよ。

 ま、そうなったらそうなったで何とかしますけど。

 一瞬だけしかめられたサフィールの表情は、誰にも見られることは無かった。ヴァンの意識は既にサフィールから逸れており、子どもたちは皆そのヴァンに視線を集中させている。

「くだらん……ユリアの預言から逃れようとして、死霊使いの預言に囚われるとはな!」
「変なことを言わないでくれ、師匠っ!」
「大佐を馬鹿にしないで!」

 吐き捨てられたヴァンの言葉に、ルークとティアが間髪入れずに言い返す。だが、ヴァンが彼らを見る視線はあくまでも冷たく、子どもたちの言葉に対する拒否の感情がありありと表れていた。

「見ているが良い、失敗作よ。いずれにせよ、このままのオールドラントに安泰は訪れぬ」

 ざくり、とヴァンの剣が床に突き立てられた。柄から手を放し、ヴァンはゆっくりと後ずさる。その先には、サフィールの譜術が生み出した大きな亀裂が待ち受けていた。

「……では、またな」

 最後にもうひとつ笑みを浮かべてヴァンは、床を蹴った。セフィロトを駆け下りていく記憶粒子の流れに身を任せ、その姿はすぐに見えなくなる。ほんの僅かその身を離れた血が、床にはたはたと痕を残しただけで。

 しばらくの間、誰も動かなかった。朱赤の焔が、顔を伏せたままぽつりと一言をこぼすまでは。

「……そんな訳、あるもんか」
「ルーク?」

 ティアがそっと寄り添い、名を呼ぶ。少女の声に反応してルークは顔を上げ、泣くのを我慢している子どものような表情でティアと視線を合わせた。

「オールドラントは滅ぼさせない。ジェイドだって死なせない」
「うん」

 ルークの言葉に、ティアは頷く。兄の最後の言葉がほんの少しだけ気には掛かったけれど、その不安はすぐに頭の奥深くへと押し込められてしまった。サフィールのように『記憶』のほとんどを知っていたならともかく、彼らの見た『夢』ではヴァンがこの後ローレライを体内に封じて復活する……などと言うところまでは分からないのだ。

「分かってる。今は、物思いに耽ってる暇は無いんだよな」

 だからルークは、ここでヴァンへの思いを吹っ切ることにした。少なくとも今、ヴァンはルークに斬られ地の底へと落ちて行った。普通ならこれで生きているはずは無い。
 それに、今はヴァンよりも大切なことがある。そのくらい、ルークにも分かっている。
 ジェイドが帰って来られる世界を守るために、外殻大地を降下させなければならない。
 そのためにルークは、今この地にいるのだ。

「……ティア。アリエッタ、ディスト。行こう」
「ええ」
「はあい」
「ええ、行きましょうか」

 朱赤の焔が名を呼び、仲間たちがそれに答える。ライガがくるると喉を鳴らし、アリエッタがその頭を撫でてやったところでサフィールが、ふと何かを思い出したように目を見開いた。壁際に放り捨てられていた道具袋を拾い上げ、その口を開いて中を覗き込む。

「ミュウ、もう出て来て良いですよ」
「みゅっ」

 ひょこっと中から顔を出したのは、戦闘中ずっとその中にいた空色のチーグル。丸い目をくるくる回しながら「終わりましたの?」と問う彼に頷いて、サフィールは小さい身体をティアに押し付けた。

「え?」
「良いんですよ。実の兄上だったんですから」

 視線を合わせずにそう言い置いて、サフィールはすたすたと足早に去って行く。それが彼なりの気遣いなのだと言うことにティアが思い当たったのは、皆と共にパッセージリングを目の前に見たその時だった。


 ぐらりと揺れたジェイドの身体を、ナタリアが慌てて支えた。反対側に素早くガイが回り、その長身に手を回す。トクナガを元のサイズに戻したアニスと、そしてシンクが並んで駆け寄って来た。

「大佐ぁ!」
「死霊使い、大丈夫?」
「………………はい」

 アニスの声には反応しなかったジェイドだが、シンクが呼びかけるとゆっくり顔を上げる。そこでやっと彼は、黒髪の少女がそこにいることに気づいたようだ。済まなそうに眉尻を下げ、再び顔を伏せた。

「……ジェイド、ここで休んでいろ。俺は未だ、やることがある」

 アッシュが、くすんだ金の髪にそっと手を伸ばしながら声を掛けた。最後に見たときはもう少し艶やかだった記憶があるけれど、かなり傷んでいるように彼には思える。

「いえ、大丈夫……です」

 だが、ジェイドはゆっくりと首を振った。その拍子にアッシュの手を離れた髪が、青い軍服の上に淡い色のラインを象る。壊れてこそはいないがかなり汚れてしまったレンズの奥で、アッシュの髪と良く似た色の瞳が僅かに光を点していた。

「……見届けさせて、ください。私の知らない『未来』を」

 ぼんやりとアッシュを見つめるジェイドの表情は、どこか嬉しそうにも見える。『夢』……ジェイドの知る『預言』の世界ではきっと、自分とルークがこうやって手を取り合い支え合うことは無かったのだろう、とアッシュは自分の中だけで結論づけた。自身が見た『夢』の範囲でも、あまりルークと仲の良い様子は見受けられなかったから。
 それなら、『預言』に詠まれていない明るい未来をジェイドに見届けて貰いたい。彼はそのために、ここにいるのだろうから。

「やれやれ」

 2人のやり取りを見ていたガイが、苦笑を浮かべつつ肩をすくめた。そして、ジェイドの腕を自分の肩に回す。視線を移したジェイドに、ガイの青い瞳は優しく笑みを浮かべた。

「一緒に行こう、旦那。ゆっくりで良いよ。ナタリア、こっちは引き受けるから」
「……済みません……」

 かすれた声で礼を述べ、ジェイドは素直にガイに体重を預けた。そんなに長く離れていたはずも無いのに彼の身体は軽く思えて、金の髪の青年はきりと奥歯を噛みしめた。

「申し訳ありません。お願いしますわね、ガイ」

 ナタリアは一度軽く目礼をして、ゆっくりジェイドから離れた。別れ際にほんの少しだけ、癒しの譜術を彼の身体に施して。
 アニスはしばらく皆の様子を見ていたが、やがてとことことジェイドに歩み寄って来た。空いている彼の手をそっと取り、軽く握りしめる。

「お帰りなさい、大佐。アニスちゃんの声がわかんなかったのは、今度パフェ奢ってくれたら許してあげます」
「……はい。いつでも」

 冗談めかしたアニスの言葉に、ジェイドはふわりと頷いて答える。少しだけ、その笑顔が以前のジェイドのものに戻ったようで子どもたちは、ほっと一息をついた。
 攫われて、操られて、捨てられて。
 きっと今のジェイドは、見た目以上にぼろぼろなのだろう。
 それでも。

「……生きていてくれて、良かった」

 己の思いに重なるように呟いたのはアッシュだろうか、それともジェイドだったろうか。
 ガイには分からなかった。


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