紅瞳の秘預言 82 傷心

 グランコクマの外れ、テオルの森を出たところでルークはじっと空を見上げていた。
 自分が生まれてから7年間親しんで来たよりももっと高くなった空はどこまでも青く、音譜帯は相変わらず雲の向こう側で淡く輝いている。外殻大地が引き上げられる以前の、本来のオールドラントの空はこうだったのだろう。
 少年の足元で彼と同じように空を見上げていたミュウが、大きな耳をぴんと立てた。空の一点を小さな手で指差し、嬉しそうに声を上げる。

「ご主人様! ギンジさんのアルビオールですの!」
「ああ」

 大きく頷くルークの視界の中で、1つの点としか見えなかったものはあっと言う間にその姿を鮮明に現した。アッシュたちを連れて自分たちよりも早くケテルブルクを離れた、ギンジの駆るアルビオール1号機である。
 テオルの森の出口前にある広場が、暫定的にアルビオールの駐機場となっている。先に戻って来ていたノエルの2号機は、現在彼女とマルクトの整備士によりオーバーホールの真っ最中だ。そうしてやっと戻って来たギンジの1号機は、そこから少し離れた場所にゆっくりとその身を降ろす。その風圧を、手で顔を庇うことで耐えたルークは、ハッチが開く音に顔を上げた。激しい風に乱れた朱赤の髪を気にする余裕は無い。

「……ルーク?」

 最初に降りてきたのは、真紅の髪を持つ青年だった。弟がそこにいることに少し驚いたのか、碧の目を見張る兄のもとへ、ルークはつかつかと歩み寄って行った。足元をついて来る空色のチーグルには、意識は向いていない。

「アッシュ! ジェイドはっ!?」

 一番に出て来た言葉を受け止めて、アッシュは小さく溜息をつく。自分のすぐ後に降りて来たナタリアを振り返ると、彼女は苦笑を浮かべながら小さく頷いた。

 ルークは大佐のことを心配していたのですから、気になるのは当然でしょう?

 その言葉にならない言葉の意味を悟り、アッシュは真紅の髪を指先で掻きながらルークを振り返った。青の軍人のことをそこまで心配しているのは分かるが、自分たちが無事で良かったと言う言葉の1つも掛けられないものか。

 まあ、こいつはそこまで器用じゃねえからな。しょうがないだろう。

「落ち着け。……ほら」

 アッシュがくいと顎で示す先……貨物室側のハッチから、のそりと巨大な譜業人形が姿を現した。その柔らかい腕の中に、青い軍服がちらりと見える。

「ジェイド!」

 それにはっと気づき駆け寄るルークに併走するように、担架を持ったマルクト軍の兵士たちも駆け寄って来る。程なくその上に移されたジェイドは、ぼんやりと虚空に視線を彷徨わせていた。己の名を呼んだルークの声すら認識出来ていないようだ。

「……ジェイド!」

 胸元に置かれていた青い左手をそっと自分の両手で握りしめ、ルークはもう一度はっきりと彼に届くようにその名を呼ぶ。それでやっと、真紅の瞳が揺れ動いた。レンズの奥で朱赤の髪を認め、ジェイドは僅かに目を見開く。

「……あ」
「ジェイド? 俺、分かるか?」
「……ルーク」

 もし、知らないなんて言われたらどうしよう。覚えてないとか、嫌いだとか言われたら。
 そんなルークの不安は、ジェイドが名を呼んでくれたことで吹き飛んだ。それでもその声は疲れ切ったようにかすれたもので、無理に笑ってくれたジェイドの表情はとても痛々しい。

「うん。お帰り」
「……大変だったでしょう? お疲れさまでした」
「……うん」

 自分の方が酷い状態なのに、それでもジェイドはルークを気遣う。それが辛くてルークは、ぎゅっと目を閉じた。そっと手を放し、マルクト兵たちによろしくお願いしますと頭を下げる。そうして、自分の背後に歩み寄って来ていたナタリアとアッシュの方に振り返った。その間にガイ、そしてシンクもアルビオールから降りて来ているのだが、それにルークは気づいていない。アニスがトクナガを元のサイズに戻したことにすら気がついていないのだから、当然のことだろう。

「ルーク、ティアや他の皆さんはどうなさったのです?」

 「お帰りなさいですのー」と足元でじゃれついていたミュウを抱き上げて、ナタリアが尋ねる。栗色の長い髪を持つ少女が少年の隣にいない光景を見慣れていないせいで問うた彼女に、ルークはふいと視線を逸らして頬を指先で掻きながら答えを紡いだ。

「あ、えっと、みんなでピオニー陛下に報告に行って貰った。俺とこいつだけ、ここで待ってたんだ」
「ご主人様、ジェイドさんが帰って来るのずっと待ってたですの。ボク、ご主人様1人だと寂しいと思って一緒に待ってたですの」
「……馬鹿か」

 ルークに続けてミュウが伝えた答えの言葉に、アッシュは肩を落とした。確かに全員で待っていてもあまり意味は無いだろうし、それよりはまずピオニー皇帝に事の次第を報告する方が先だ。ルークを残しておいたのは、もしかしたらサフィールの気遣いかも知れない。ルークにでは無く、帰って来るジェイドに『我が子』が無事であることを教えると言う。

「まあ、それだけルークが旦那に懐いてたってことで良いじゃないか。それに、連れて帰れたし」
「だよねー。シンクのおかげだよう」
「……ふんっ」

 苦笑を浮かべつつフォローの言葉を入れたガイが、アッシュの肩を叩く。背中にトクナガを戻したアニスがにこにこ笑いながら見つめて来るのに、シンクは思わず視線を逸らした。周囲の兵士たちの視線が気になるのは、イオンと自分を比較されているような視線ばかりだからだろうか。
 その中に全く異なる視線が入り込む。この場に彼がいることにそれまで気がつかず、驚いたルークのものだ。

「え? あ、シンク?」
「やっぱり気づいて無かったね、あんたは」

 つまらなそうに溜息をつきながら、それでもシンクは少しだけ唇の端を上げる。少なくとも今の朱赤の焔には自分に対する敵意は見られないし、シンク自身も既にそんな感情は消えていた。
 自分も彼も、同じ生まれ方で世界に生まれて来た人間である。生まれさせられた理由はどうあれ、今自分たちには手を取ってくれる人がいる。
 それだけで、良い。

 ルークたちの様子を楽しそうに眺めていたナタリアが、ふと気づいたようにアッシュの腕を引いた。

「アッシュ。私どもも、ピオニー陛下の元に報告に上がらなくてはいけませんわ」
「あ、ああ、そうだな」

 言われて気づいたようにアッシュも頷く。その場にいる仲間たちをくるりと見渡した視線は、最後にルークの所で停止した。少し不安げに揺れる碧の目の意味を汲み、ぽんと朱赤の頭に手を置く。

「心配するな。ピオニー陛下に頼んで、ディストをジェイドの治療に回して貰うつもりだ」
「……うん」

 やはりか。
 ルーク以外の全員が、納得の表情を浮かべた。たった今見たジェイドの状態を考えれば、ルークが彼の容態を気にしないわけが無いことくらい分かる。

「ジェイド、やっぱり身体の具合悪いんだよな……」
「負傷に関しては、私が全力で治癒譜術を掛けましたわ。ですから、身体は大丈夫です」

 しょげるルークに、ナタリアが僅かに強い口調で語って聞かせる。その後は、アッシュが言葉を引き継いだ。

「ただ、精神の方がな……薬物投与と暗示による思考誘導の影響がまだ強く残っている」
「暗示……」

 ぼんやりと虚ろに微笑むジェイドの表情を思い出し、ルークがきりと唇を噛みしめた。アクゼリュスで操られ、パッセージリングの機能を停止させられかけた自分のことを思い出したのだろうか。


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