紅瞳の秘預言 83 狭間

 指先がほんの一瞬触れただけで、ジェイドはびくりと身体を震わせた。それでシンクは、なるべく素肌に触れないように観察をしてそう、結論づける。
 だが、それだけでは彼がリグレットに抵抗もせず付き従っていた、その理由が分からない。
 故に、なおも問う。彼が苦しいのは承知の上だ。……このまま放っておいては、もっと苦しむ結果をもたらすかも知れない。

「ヴァンに逆らえないって言うの、奴に何か言われた?」
「……私は、彼に逆らってはならない、と……私の研究が、彼を苦しめたのだから、その罰を……今受けよ、と……何度も、繰り返して」
「そっか」

 薬物の投与は、こいつの自我を弱めて深層意識の防御を外すためか。
 そうで無ければ、短時間でここまでこいつの思考を支配することは出来ない。
 とことんまで追い込まれて、壊されたんだ。

 ほんの数瞬でその結論を引き出して、シンクはジェイドの顔を見上げた。どこかに怯えの色が見えるジェイドに微笑みかけて、ゆっくりと『命令』を紡ぐ。

「分かった。ヴァンに逆らえなくても、リグレットには従う必要は無い。抗えないなら、耳塞いで。命令を聞かなければ良い」

 自意識を押し潰された今の彼には、はっきりとした方向性を持つ命令を与えてやらなければならない。そうで無ければ彼はリグレットの言葉に惑わされ、意に染まぬ行為に手を染めてしまうかも知れない。
 例えば、彼が守りたいと願っているはずの焔たちの生命を奪うと言ったような。
 そうさせないためには、不本意だが彼の意思に対する主導権をシンクが握るしか無い。いつリグレットたちが追って来るか分からないこの状況の中、これが最良の策だろう。そのための理由付けとて、シンクは既に構築済みだ。

「僕は、お前の研究が生み出したレプリカだ。そうじゃ無いリグレットよりも僕の方が、お前の中では優先順位が高いはずだ。そうだろう?」
「……はい」

 その理由付けに頷いたジェイドの表情は、未だに虚ろ。このまま正気を取り戻せなかったら、自分はどうすれば良いのだろうとシンクは眉をひそめる。
 不意に機械音がした。はっと顔を上げると、恐らくはセフィロト内の警備を担当していたのだろう譜業人形たちが集まって来ている。だが、彼らにシンクたちを攻撃すると言う意思が無い、もしくはそう言った命令が下されていないことはすぐ少年にも把握出来た。
 譜業たちは先ほどシンクがジェイドを連れ走り込んで来た入口がある方向を向き、彼らに背を向けている。これが人間であれば、彼らは自分たちを庇い両手を広げていると言った構図だろう。

「……お前たち」

 呆気に取られていたシンクだったが、少し考えてすぐに頷いた。ジェイドや2人の焔を初めとした彼ら仲間たちを守るように、ローレライがかなり協力的に動いている。創世暦時代の音機関は第七音素により動作しているものが多いから、その意識集合体たるローレライの意思に従うよう譜業人形たちが動いたとしても不思議は無い。
 そんな事例が今までにあったかどうかは知らないし、知りたいとも思わない。
 今目の前で起きていることが、全てだ。

「なら、せいぜい使わせて貰おうか。リグレットたちの足止めは頼んだよ」

 譜業たちに声を掛けてから、彼らに音声を受け取る機能があるかどうか分からないことにシンクは気づいた。ほんの少し苦笑を浮かべてから立ち上がり、ジェイドの手を引く。

「パッセージリングのところまで下がって、待ってよう。アッシュかルークか、どっちかは来てくれるはずだから」
「アッシュ──ルーク」

 少年が述べた、2人の焔の名前。立ち上がったところでその名を受け取り、ジェイドははっと目を見張った。

 ああ。
 やっぱり、あいつらの名前には反応するんだ。

 それが分かり、シンクは安堵した。もし焔たちの名前を彼の内側から消されていたとしたら、きっとあの2人は……特に朱赤の焔は悲しむだろうから。
 それに、きっと自分も。

「だから、気をしっかり持ちな。あんたはヴァンに良いように利用されてるだけだ、以前のあいつらと同じように」
「…………」

 自分に言葉を言い聞かせているシンクをぼんやりと見ていたジェイドの瞳が、ふっと逸らされた。長い髪で半ば隠された彼の顔に、悲痛な表情が浮かべられる。

「帰れない、かも、知れません。私は、あの子たちを、裏切った」
「あんたは悪くない。悪いのはあんたの意志を押し潰したヴァンだ」

 シンクがジェイドを力づけるつもりで口にした言葉に、だが彼は悲しそうに目を閉じた。しかしこれは、シンクが悪いわけでは無い。
 『前の世界』でジェイドは、ヴァンに操られアクゼリュスを破壊したルークを薄々そうと感付きながら捨て、突き放した。同じ状況に陥った自分が誰かから庇われるなど、あってはならない。

「守ります。私の、全てを賭けて」

 けれど、生命を賭けて守るならきっと、『前のルーク』も許してくれるだろう。
 最後はあの子と同じように、音素に解けてしまえばきっと。

 ジェイドがそんなことを考えているなど、シンクには分からなかった。


 入口側から、白い鎧たちが駆け込んで来る様子が目に入った。シンクはジェイドを自身の背後に回し、今は敵となった彼らを睨み付ける。その数はかなり減ってはいたが、それでもこちらが実質シンク1人しかいないことを考えると多勢に無勢であることに変わりは無かった。
 兵士たちの最後に入って来たリグレットが、余裕の表情で銃口をシンクに合わせる。ほとんど戦闘能力を持たない今のジェイドはいつでも殺せる、故に今狙う必要が無い……それを示したのだろうか。

「後は無いぞ? シンク」
「ちっ。あんたもいい加減しつこいね」

 苦々しげに舌を打つ少年を見つめ、リグレットはふんと鼻を鳴らす。今の彼女にとって為すべきことはヴァンの計画を成就させることであり、そのために育てられたシンクが彼らに刃向かうなど考えられないことだった。否、実は何かの間違いでは無いかと今でも思っているのかも知れない。
 故に彼女は、確認するように問いを投げかけた。

「もう一度だけ問う。閣下の元へ戻り、レプリカ計画を完遂させる気にはならんか?」
「やだね。死霊使い、下がってて」

 これもまた一言で答え、シンクは床を蹴った。相手が戦闘態勢を完成させる前にその数を少しでも減らし、もしどちらかの焔が来てくれるならばそこまで耐えきらなければならない。
 自分もそうだけど、きっと彼らの方がジェイドの無事を祈っていることくらいシンクには分かっている。

「ったく、数だけぞろぞろと……」

 とは言え、相手の数がどうしても多い。基本的に急所を狙い、速度に任せた攻撃を得意としているシンクだが、島に上陸した直後からの連戦だ。スタミナも消耗しすぎている。
 それが分からない、リグレットでは無かった。

「シンク……っ」
「え?」

 不意に名を呼ばれて、少年が振り返った瞬間。

 タン、タン。

 乾いた破裂音が、パッセージリングの間に響いた。


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