紅瞳の秘預言 90 誘惑

 アブソーブゲートの最下層に降り立つと、記憶粒子の濃密な圧力が肌に感じられる。第七音素の素養を持たないガイやジェイドにも、その感覚は伝わってきた。
 床一面に、巨大な譜陣が描かれていた。淡い光を湛えたそれは、今も稼働していることが分かる。
 譜陣を構成するラインを視線でしばらく辿っていたルークは、その視線をそのままジェイドへと移した。

「ここで、俺が宝珠を使えば良いのかな?」
「はい」

 アッシュとナタリアに寄り添われた状態で、ジェイドは頷いた。まだ大丈夫だと己を確認し、真紅の眼を細めて言葉を繋ぐ。

「ローレライの宝珠には第七音素を拡散させる作用がありますから、それを利用してこの譜陣を消去してください。それでこちらのゲートは閉じられます」
「分かった。描いたときは剣の方使ったのかな?」
「だろうな。こっちは第七音素を収束させられるようだし」

 弟の純粋な問いに、兄もまた頷いて言葉を紡ぐ。その間もガイとシンクは、些細な異変をも逃すまいと周囲に視線を巡らせている。それは、ルークに寄り添っているティアとミュウも同じことだ。
 一瞬、そのティアが身体を震わせた。空色のチーグルがそれに気づき、大きな目をくるりと回す。

「みゅっ? ティアさん、どうしたですの?」
「わ、分からない。でも……」
「ティア? 大丈夫か?」

 少し遅れてルークもティアの様子に気づき、慌てて駆け寄る。と、その2人の手を取る手があった。緑の髪の、ルークにとっては『弟』に当たる少年。

「下がって。何かやーな気配がする」
「あ、ああ」

 彼には珍しく曖昧な言い方ではあるが、シンクの表情は露骨に何かを嫌がっているものだ。そこに宿っている言葉の意味を意識によらず理解してルークは、即座に頷くとティアの手を掴んだ。

「ティア、ミュウも行こう」
「ええ。大丈夫、ごめんなさい」
「みゅみゅ。危ない危ないですの〜」

 足元から自分の肩に駆け上がって来たチーグルを確認することもせず、ルークはティアを連れてガイたちのところに戻る。その背後にふわり、と第七音素の塊が浮かび上がった。

「あれは……」
「下がれ。出て来る」

 目を見張るジェイドを自身の背後に庇い、アッシュは腰の剣に手を掛けた。抜くことはしない。不意を打たれ、ローレライの鍵を奪われるのを恐れてのことだ。
 コンタミネーションによりルークの体内に収納することが出来る宝珠と違い、アッシュが受け取ったこの剣は常に実体化している。第七音素を収束させる能力を持つこの剣がヴァンの手に渡れば、大地の複製を初めとして世界の崩壊に使われることは想像に難くない。

「ざけんな。てめえには渡さねえ」

 青年が睨み付けるその先で、第七音素の塊はゆっくりと大きさを増していく。最初は歪んだ球形であったものが縦に伸び、手が生え、足が生え……そうして人型を取ったところで、激しい光を解き放った。

「きゃ……!」

 思わず顔を庇いながらも、ナタリアはジェイドにしがみついた。本能的に彼をつなぎ止めておかなければならない、そう感じ取ったのだろう。

「みゅみゅ! 怖い音素ですの〜!」

 ルークの襟元にしがみついたミュウの悲鳴が、目の前で起きている状況を端的に表している。この幼いチーグルが恐怖を覚える相手など、今この場にはほとんど存在していない。

「……ふむ。未だ、元の姿を取るには厳しいか」
「……く」

 つまり、目の前で半実体化しつつゆらゆらと蠢いているこの人間らしき存在こそが、ミュウを怖がらせているのだ。その隣に、こちらは実体化に成功したことで素性がはっきりした存在がもう1人いる。
 後頭部の高い位置でまとめられていた長い金髪を背に流している彼女は、ラジエイトゲートから地核へと転落していったリグレット。恐らくは地核内でヴァンと合流し、その力を借りて地上に戻ることが出来たのだろう。

「兄さん! ……教官っ!?」

 ティアが2人を呼ぶ。その声でやっとリグレットは、どこかぼんやりとしていた意識を引き戻したらしい。顔を上げ、教え子だった少女と視線を合わせたところで目を見張った。

「ティア?」
「……ティアか。久しいな」

 ゆらり、と蠢く人型の、その口元が僅かに笑みの形を取ったことが目に見えて分かる。それで子どもたちは、『夢』の中で見たローレライと酷似している『それ』がヴァンであることを確信した。『記憶』の中では完全に実体化した状態での再会だったから、ジェイド自身もこの状態のヴァンは初めて見ることになる。

「ちっ。やはり帰って来たか」

 背後にいるジェイドの表情を伺うこともしないまま、アッシュがあからさまに嫌な顔をした。シンクはサングラスを外し、ふんと鼻を鳴らす。既に重心を軽く落とし身構えているのは、いつでも戦えると言う意思表示。

「ほんとに大概しつこいね。まあ分かってたことだけどさ」
「ふふ……カーティス大佐の『預言』でこのくらいは分かっていただろう。だからこそお前たちは今、この場にいる」

 ゆらゆらと頼りなく揺らめきながら、それでもヴァンは不敵な笑みを浮かべ続けている。その圧力にも思える気迫を真正面から受けながら、ガイは宝剣ガルディオスの柄に手を掛けた。

「そしてヴァンデスデルカ、あんたもな。ローレライの抵抗は厳しいだろうに」
「おかげで、未だに元の姿を取り戻せん。だが己の意思は、既にあれを凌駕している。こちらがローレライを抑え込むのも時間の問題だ」

 かつて己の主であった青年の腰に宝剣を認め、ヴァンが満足げに頷いたようにガイには見えた。青年が父の形見であり家の名を冠する剣を取り戻したことは、例え袂を分かった相手だったとしても喜ばしいことなのだろう。
 だが、その喜びもほんの一瞬。半透明の人型は再びゆらりと揺れて、その視線を真紅の焔に向けた。

「アッシュ、私と共に来い。お前の超振動があれば、定められた滅亡と言う未来の記憶を消すことが出来る。そこの男が見た己の滅びすらも消し去ってやれる」
「ふざけるな。ジェイドが死ななくなるんじゃ無くて、こいつも含めて全員を殺すだけのことだろうが」

 ヴァンの誘いに対するアッシュの言葉は、既に決まっていた。ジェイドがかつて『見た』時のような、ほんの僅かな躊躇すらも無くアッシュは、拒絶の回答を吐き出す。
 アッシュの説得は無理と見てか、ヴァンの意識がルークに向けられる。これもまた、ジェイドの『記憶』の通りだった。そうで無くとも彼が超振動を求めている以上、その力を操れるもう1人を誘おうとすることは簡単に推測出来るのだが。

「そうか……ではルーク、お前はどうだ」
「俺?」

 当然ルーク自身もそのことは分かっていたはずだが、それでもかつての師に名を呼ばれたことで一瞬心臓が跳ねた。アクゼリュスで捨てられてからずっと、自分のことをレプリカと蔑んでいたのだから。


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