紅瞳の秘預言 90 誘惑

「私の命令よりも、そいつらを優先すると言うのか?」

 ジェイドが己を取り戻したことに気づき、ヴァンは実体化出来ぬ全身を揺らめかせながら問うた。リグレットが眼を細め、つまらなそうに見つめている。

「…………当然、でしょう?」
「ああ、当然だな」

 途切れながらもジェイドが示した意思を補強するかのように、アッシュが同じ言葉を口にした。構えたローレライの鍵剣は、今目の前にいる不安定な存在の中にいるモノに反応し淡く光っている。彼に一瞬でも隙があれば、剣はリグレットの手に奪われるかも知れない。

「そうだよな。他人の意志を押し潰してまで従わせようとする輩の命令なんて、聞くことは無い」

 だが、その剣を奪おうとするリグレットの動きはガイの切っ先によって牽制されていた。彼女がつまらないと言う表情を浮かべている一因は、間違いなく宝剣ガルディオスにある。目の前にある『兵器』を手にすることが出来ない、その理由として。

「私たちが未来を目指す方法は、兄さんたちと違う。貴方たちの都合に、大佐やルークたちを利用しないで」

 そうしてティアが、いつでもナイフを投擲出来るように構えながら言葉を叩き付けた。
 兄の庇護を受け、リグレットの手ほどきを受けて成長した少女が、今や1人の戦士として自分たちの前に立ちはだかっている。それは彼女との関係が敵であろうと関係無く、実兄であるヴァンには喜ばしいことであった。
 だが、ヴァンが自身の思いを表に出すことは無い。己が目指す未来のためには、その思いは邪魔でしか無いからだ。

「ほう。しかし、それで良いのか?」
「それで良い、とは?」
「貴方が知る2つの『預言』のどちらもが、貴方はそう長くないことを示している。そこから逃れるには『預言』を破壊するしか無い」

 故に、ナタリアの反問にヴァンは端的に答える。しかし、その言葉を受け取ることが出来るほど、子どもたちは何も知らない訳では無い。
 だって、自分たちを導いてくれた真紅の瞳を持つ彼が、その言葉を拒絶するのだから。

「だから……何だと言うのです?」

 軽く振られた頭の動きにつれて、さらりと髪が流れる。不安げに自分を見上げて来るルークに微笑んで見せ、ジェイドはレンズの奥からじっとヴァンを見つめた。

「私が長らえようとそうで無かろうと、そこに意味はありません。世界が救われて、ルークが救われれば、私はそれで良い」

 ジェイドはそう言う。けれど子どもたちは、それでは納得しない。ジェイドから離れないままルークは、その思いを言葉にして示す。

「もう、世界は預言から離れ始めています。だからこそ俺たちも、こうやってここにいる。みんなで生きるために」

 自分たちを護ろうとしてくれているこの人も一緒に、生きるために。
 本当なら、自分に剣を教えてくれた優しい師であったヴァンにも同じ道を歩んで欲しかったけれど、でもその願いはもう叶わないと分かっているから。
 だからルークは仲間と、そしてジェイドを選んだ。だがその思いは、やはりヴァンへと届くことは無い。

「愚かな。私が正しいのだと、後悔してももう遅いのだぞ」
「後悔ならもう、しましたよ。『前の』ルークを殺したときに」

 子どもたちの思いを切り捨てるヴァンの言葉は、感情を含まないジェイドの言葉で逆に切り捨てられる。ヴァンはジェイドの言葉でしか知らないかも知れないけれど、子どもたちはその光景を外殻大地が魔界へと降下して行く時間の中で見た。

 死んでください、と言います。

「だから、その後悔を繰り返さないために、私はここにいる。二度とこの子を殺さないために」

 だからもう、そんな顔をこの人にさせたくない。その一心で子どもたちは、この場にいない仲間たちは、世界をユリア・ジュエの預言から引き離そうと努力を続けている。そうしてその努力は、ゆっくりと実を結びつつある。
 だが、ヴァンにとってはその努力はきっと無意味なものに見えることだろう。故に彼は、子どもたちを護ろうとして『帰って』来たジェイドになおも問う。

「それで? 預言の通りに己が死んでも構わない、などと言うのかね?」
「どうして私のことが話に挙がるんですか? 私の存在など、未来に関係無いでしょうに」

 不思議そうに首を傾げ、問い返すジェイド。その言葉と表情に、ルークははっとした。

 私が長らえようとそうで無かろうと、そこに意味はありません。

 私の存在など、未来に関係無い。

 この人はもう、あの『夢』と同じように解けて消えるその覚悟を、決めているのかも知れない。
 1人で、誰にも相談すること無く。

 でもそれじゃあ、『前の世界』で死んじゃった俺と一緒じゃないか。


 突然、ヴァンを形作っている音素がふわりと広がった。光の風がリグレットを包み込み、その足元を宙に浮かべる。

「閣下」
「いつまでもこやつらと話をしていても埒が明かん。外に出る」
「は」

 驚愕の色を見せたリグレットを、ヴァンは一言で従わせた。光の中に垣間見える彼の目が、子どもたちを冷徹に見つめる。

「では、また会おう。私が戻ったからには、この世界は貴様らの思うとおりにはならん」
「それはこっちの台詞よ。兄さん、教官」

 子どもたちを代表して、2人とは一番結びつきの深いティアが答えた。いつもは優しい光を湛えているその瞳には、兄たちを拒絶する強い意志が宿っている。それを理解したのか、リグレットは軽く頭を振ると吐き捨てた。

「次に会った時には、決着を付けるぞ。メシュティアリカ」

 長い髪が、ヴァンを形作る音素の風に煽られて広がる。一瞬空間内は光に満ち、それが収まったときにはヴァンの姿も、リグレットの姿もその場から消え失せていた。

「……兄さんの、馬鹿」

 ぽつん、とティアが呟く。その言葉が、ジェイドと子どもたちの意識を現実へと引き戻した。ずっとジェイドにしがみついていたルークは、自分よりも高い位置にある端正な顔を見上げる。

「……ルーク?」

 つい腕の力を強くしてしまったのか、その中でジェイドが僅かに身じろぐ。感覚に気づいてルークは腕を緩めながら、ふわりと笑って見せた。

「大丈夫だから、ジェイド」

 その言葉はもしかしたらジェイドにでは無く、ルーク自身に言い聞かせていたのかも知れない。けれどその認識はルークには無く、そのままに言葉を続ける。

「俺たちはみんなで一緒に、星の未来を掴むんだ。な?」
「……ええ、そうですね」

 例えその場に私がいなくても、貴方たちは笑っていてくださいね。

 ジェイドがその言葉を、声にして紡ぐことは無かった。そうしてしまえばきっと、子どもたちはよってたかって怒るだろうから。


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