紅瞳の秘預言 97 吾子
こんこん。
ほんの一瞬、音が途切れた。それを待っていたかのように、入口の扉をノックする音が控えめに聞こえて来る。
「はーい」
アニスがすぐに駆け出し、扉の向こうに顔を出す。一瞬だけその動きが止まったことは、室内にいる全員が視線を集中させていたためはっきりと確認出来た。
「……えー、そうだったの? だいじょぶだいじょぶ、心配無いって」
そのままの姿勢で会話を交わしている少女の後ろ姿を見やりながら、アッシュが眉をひそめた。サングラスの位置を直しながらシンクは、濃い色のレンズの下で目を細める。
「アニス、誰だ?」
じれたのか、ルークが声を掛ける。そこでやっと室内の空気に気づいたのか、アニスがこちらに顔を向けた。扉が邪魔で、その向こう側にいるはずの誰かの姿を確認することは出来ない。
「あーうん、ピオニー陛下の言ってた、あたしたちを援護してくれる譜術士のひとー。大佐、ディスト、びっくりしちゃ駄目だよ」
「え?」
「私たちですか?」
アニスの答えはどこか意外なものだった。指摘されてジェイドが真紅の目を軽く見開き、サフィールが眼鏡の位置を直す。2人の仕草をしばらく眺めていたアニスは、うんとひとつ頷いてから扉を大きく開いた。外にいたその人の手を握り、半ば強引に室内へと招き入れる。
純白の髪と、ジェイドと同じく真紅の瞳を持った彼女の姿に、アニスが呼んだ2人は呆然と立ち尽くした。
「……!」
「……へ?」
アニスの後ろで彼女は、赤く染まった端麗な顔を伏せている。その背に認められる黒白の翼よりも何よりも、彼らには懐かしいその容姿。
「皆様の援護を命じられた、ゲルダです。よろしく」
顔を上げないまま、彼女はそう名乗った。その名を知る2人の焔たちが、はっと目を見開く。
「ゲルダ、って……えー?」
「……オズボーン知事の言っていた、ジェイドの師だった方の……」
「そう言えば、貴方たちはネフリーから聞いていたんでしたね」
アッシュの出した名に意識を引き戻されたのか、ジェイドは小さく溜め息をついた。ぱくぱくと酸素不足の魚のような顔をしているサフィールをよそに、事情を知らぬ子どもたちが不思議そうに首をかしげた。
「あの……この方は? 大佐やネイス博士のお知り合いですの?」
「あ、そうか。この人はピオニー陛下直属の配下のゲルダさん。俺はベルケンドで知り合ったんだがね」
「えっとね。ルークやシンクやイオン様の、一番上のお姉ちゃん」
代表して問うたナタリアに以前に顔を合わせたことのあるガイ、そしてアリエッタが説明を加えた。少女の言葉に、アッシュは納得したかのように頷く。
「世界初の、生体レプリカ……ってことか。ジェイドにとっては長女になる訳だな」
「俺の姉上……そっかあ。俺、姉上がいるんだ」
生体レプリカと言う存在を、この子どもたちは『ジェイドやサフィールの子』と言う認識で受け止めている。だからアッシュやルークの言葉は、ある意味当然のものだった。
「……え?」
「僕や導師にとっても姉上か。男兄弟ばっかりってのも味気ないし、良いんじゃない?」
ただ、はっと顔を上げたゲルダにはその反応はとても不思議なものだっただろう。苦笑を浮かべつつサングラスを外したシンクの悪戯っ子のような表情にも、何を言われたのか分からないとでも言うように目を見開くだけだ。
そんな中で常態を取り戻したサフィールは、至極当然な疑問を彼女にぶつけて来た。
「ピオニーの直属で私たちの護衛、ですか。普段は主にどんな任務を負っているんです?」
「……今は、皇帝陛下の密偵を務めてるわ。主にキムラスカ側の情報収集を請け負っているの」
こくりと唾を飲み込んで、ゲルダは務めて冷静に答えを口にした。ピオニーの名を呼ばないのは、自分が彼の知る『ゲルダ・ネビリム』では無いことを示す最大の証拠だと思っているから、だろうか。
それに気づいたかどうかは分からないが、サフィールの目がレンズの向こうで少し微笑んだ。
「そうか。ワイヨン鏡窟を潰したの、貴方ですね?」
「ええ。陛下の命を受けて」
「やっぱり。おかげで助かりましたよ」
ワイヨン鏡窟。フォミクリーに必要な素材であるエンシェント鏡石が発掘される、重要な地である。アクゼリュス降下から程無く外殻へと戻ったジェイドたち一行は、その地が崩壊したことをベルケンドで知らされた。同じ頃サフィールは既にグランコクマにおり、その情報を知ったのは皇都へと戻ったジェイドの口からだった。
当時はその原因に思い当たらなかったのだが、皇帝の密偵だと言うゲルダの存在が理由を明らかにした。
ピオニーはルークたちの苦労を少しでも減らすために、その根源の1つを彼女に命じて破壊させたのだと。
「……あ」
ゲルダの喉が、どこかかすれた声を上げる。いつの間にか、彼女の目の前にまでジェイドが歩み寄って来ていたのだ。服の裾を摘まんでいたシンクの指先も、彼の歩みを止めることは無かった。
「わ、わたし」
つい、視線を逸らしてしまう。ゲルダ自身には『前の世界』の記憶は無いけれど、『ゲルダ・ネビリム』の記憶は少しだけ残っている。そして、幼いジェイドとサフィールの前で兵士を殺したときの記憶も。
だから、彼と視線なんてとても合わせられない。
「……大丈夫、なんですね?」
だと言うのにジェイドは、優しい口調でそんな言葉を掛けて来た。「えっ?」と聞き返す彼女に、同じ色の瞳を持つ彼はふわりと微笑んで見せる。それはルークに見せるものと同じ、『生みの親』としての顔。
「もう、破壊衝動に駆られたり、人から音素を奪うなんてことはしないんですね?」
「しないわ……してないわ。戦は嫌いじゃないけれど、無差別に殺すことはもうしていない」
その『親』から問われ、ゲルダは素直に答えを紡ぐ。自身の主であるピオニーから教育を受けたこともあるけれど、それよりも何よりもジェイドに嘘はつけないと感じているから。
「動物を狩って食べることはあるけれど……人を殺すのは、戦わなければならないときだけって」
「……ええ」
訥々と紡がれる言葉に、ジェイドは笑みを崩さないまま頷く。その微笑がかえって辛くて、ゲルダの両目がじわりと涙で滲んだ。
「そうで無きゃ、こうやっておめおめと顔なんて出せない……ほんとは、顔合わせなんかせずに出るつもりだったのに」
きゅっと、白い両手が拳を握る。声にも、涙が交じる。
恐らくは、出撃前の顔合わせという名目でピオニーがゲルダに、ジェイドと会うよう命じたのだろう。
何時までもすれ違ったままでは、双方ともここから先に進めないから。
『生徒』と『師』では無く、『死霊使い』と『初めての生体レプリカ』でも無く。
『父』と『娘』として、始めるために。
「良かった」
「え」
その思いが通じたのかどうかは分からないけれど、少なくともジェイドはゲルダを見つめ、そして微笑むことが出来た。そっと細い両肩に置かれた手も優しい感触で、だからゲルダは驚いて顔を上げた。
「貴方は悪くないんです。貴方をそんな風にしてしまったのは私、ですから」
泣きそうな笑顔は、恐らくゲルダの記憶にも『ゲルダ・ネビリム』の記憶にも存在しない表情だろう。そうして、彼が口にした言葉も。
「だから、貴方が気に病むことは無いんです。それに、今はもう違うのでしょう?」
「……ええ」
問われて、再び頷く。
ピオニーに叩き伏せられたあの日から、ゲルダは獣では無くなった。だから無差別の殺戮もしないし、破壊衝動も理性で抑えつけることが出来る。
それが、『父親』であるジェイドには嬉しくてたまらなかった。だから、伸ばした腕の中に『最初の娘』を閉じ込める。
「それなら良いんです。貴方は、幸せになるんですよ」
柔らかく抱きしめられて、ゲルダは目を白黒させる。ほんの少し止まった手は、やがて恐る恐る青い背中へと伸ばされた。
誰かの体温を感じても良いのだと、許されたのだと感じたから。
私にはもう、望むべくも無い未来ですから。
だから、ジェイドが言葉にしなかった思いがゲルダに届くことは無かった。
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