紅瞳の秘預言 104 契約

 青い、高い空の下。
 外殻降下以降それよりもずっと高く、深い青を湛えるようになった空の向こうには、それでも譜石帯がきら、きらと垣間見える。一度は障気によりおぞましい色に染まったけれど、朱赤の焔の力と1万のレプリカの生命によって清められた大気はどこまでも澄んでいた。
 レムの塔を登りきり、ジェイドはその空を見上げていた。ぼんやりと視線を投げている真紅の瞳は、どこか焦点が合っていない。本来槍使いであるはずの彼の両手には、音叉を象った剣が構えられている。

 ──

 薄い、血の色を失った唇はゆっくりと、旋律を奏でている。誰に学んだでも無く、自ら組み上げたでも無い旋律は、遠い過去から伝えられたものだ。
 ヴァンとの戦いでティアが奏でた旋律をたった一度だけ耳にしたことがある、大譜歌。その一度で彼は、旋律を寸分狂うこと無く記憶していた。まさか、それがこんなところで役に立つとは思わずに。
 ローレライの鍵を高く掲げ、ジェイドはただ歌い続ける。そうすることで彼は、今は音譜帯にある存在へと呼びかけていた。

 ……トゥエ・レィ・レィ

 大譜歌が、終わりを告げる。その最後の音に重なるように、彼の目の前に明るい焔がふわりと灯った。1万の生命が消え去った床の上には譜陣が描かれ、その中央に焔は人を象るように燃え盛っている。

「……ああ。やはり、降りて来てくれましたね。ローレライ」

 剣を下ろし、ほっとしたように笑みを浮かべたジェイドの端正な顔には、くっきりと譜陣が浮かび上がっている。衣服に遮られて見えないが、彼は全身を譜陣に侵食されていた。
 否。ジェイド・カーティスはそれを承知で、自ら譜陣を刻み込んだ。
 今、この時のために。

 ──契約の歌と鍵。
 それが揃った時、我は降臨する。
 何用だ、譜眼の主よ。

 本来ならば、ジェイドがローレライの言葉を聞き取ることは出来ない。だが、今の彼の耳にその言葉ははっきりと届いている。
 彼の身体に刻まれた譜陣が、それを可能にしているのだ。
 第七音素をその肉体に取り込む譜陣。それは同時に彼の理性を削り取り、生命の刻限を縮めつつある。端正な人の姿を未だ保っているのは、ある種の奇跡とでも呼ぶべきだろうか。

「譜歌と鍵をそろえて貴方を呼び出す理由なんて、ひとつしかありませんよ」

 こぼれ落ちていく理性を必死に繋ぎ止めながらジェイドは、それでも穏やかに微笑んで見せた。第七音素意識集合体の顕現は、彼にとって今この場にある理由を満たすための絶対条件なのだ。
 そうしてジェイドは、ゆっくりと願いの言葉を口にした。

「契約、しませんか」

 ──契約、とな。

 一瞬、焔が怯んだように見えたのは気のせいか。
 もしかしたら、己の前に佇んでいる男の状態を感じ取ったのかも知れない。既に彼からは、正気がほぼ失われてしまっていることを。
 この男は、自らとの契約を手にするために己を捨てたのだと。

「ええ。私は──ルークに生きて欲しい」

 ジェイドが口にする自らの願いは、実はローレライにとっても叶えたかった願いだった。
 自らの分身とも言える朱赤の髪の少年はその短い生命を散らし、真紅の焔に全てを明け渡してしまった。
 己の見た預言が、彼と彼を取り巻く人々の力により僅かながらも覆された。預言に詠まれない未来を手にしたあの少年が、人として彼自身としての生涯を生きることが出来れば良かった、と思ったこともある。
 けれど。

 ──死した者を蘇らせることは出来ぬ。
 それは、そなたも良く知っておろう。

「分かっています」

 ローレライの言葉に、ジェイドは頷いた。ゲルダ・ネビリムの一件について当事者であるからこそ、当然知っている。
 故に彼は、自らの力で死者の復活を遂げることはとうに諦めている。否、死者を復活させることなど、眼前に存在する意識集合体にすら不可能。
 そんなこと、恩師を殺したあの日に分かっている。

「ですから、違う方法を取りたい。そのためには、貴方の力が必要になる」

 言葉を紡いだ瞬間、ジェイドの意識がブラックアウトしかけた。ぶるりと頭を振ると、傷んだ髪が数本ぷつぷつとちぎれて落ちる。音素乖離が始まっているのは明白で、即ちジェイドにはもう、時間はほとんど残されていない。

「今ここにいる私の記憶を、時を越えて過去の私に送ることは出来ますか? 未来の記憶を過去の者が見ることが出来る、預言のような形として」

 けれど、ジェイド自身の意識には己の残り時間などと言う概念は既に存在していなかった。彼の中に残っているのはただ、朱赤の髪の少年を救いたいと言うその思いだけ。
 そして、己の案なればその思いは遂げられるであろうと言う、確信。

 ──…………。

 ローレライも、そのことに気づいたのだろう。言葉を発さず、ジェイドが口を開くのを待っている。それはつまり、彼の問いを肯定すると言うことで。
 だからジェイドは、譜陣を浮かび上がらせながらも端麗な顔に満面の笑みを浮かべた。

「出来ますよね? そうだと思って私は、この方法を選んだんです」

 ──己に滅びの譜を刻んでまでか。

「私の生命など、もうどうでも良いんです。ルークが、あの子が未来を生きてさえくれれば、私は」

 ローレライの言葉を、ジェイドは否定しない。先天的に第七音素の素養を持たない彼がそれを取り込めば、程無く死を迎える。モースの変化と最期を見届けた彼は、当然そのことを知っている。
 知っていてなおジェイド・カーティスは、この時のために音素を身体に受け入れた。
 自分を変えてくれた幼子を、救うために。

「あの子が、人を愛すると言うことを私に教えてくれました。あの子が消えてしまってからそれに気づくなんて、私はただの愚か者でしか無い」

 こほ、と咳き込むと、赤い血が飛び散った。体内組織の崩壊が始まっているのだろうが、その苦痛を表情に出すこと無くジェイドはローレライを見つめる。血と同じ色の瞳は濁り始めており、もしかしたら視力も失われているのかも知れないが。

「だから、私はルークに未来を贈りたい。そのために、貴方と契約を交わしたいのです」

 ──契約には、それに見合った対価が必要であると知ってのことであろうな?

「対価なら、私の全てを差し上げます。足りないのであれば、この世界に存在する私に関わる記憶の全てを」

 一瞬の迷いも無く、ジェイドは言い切る。何かを乞うように差し伸べられた手にも譜陣は浮かびあがり、ぐずぐずと皮膚の色をおぞましく変化させていた。
 本当にもう、今の彼にとって己の生命など案ずるべきことでは無いのだろう。それを感じ取り、焔はゆらりと揺らめいた。

 ──確かに、それならば見合うであろうが。
 それでは、契約成就の暁にはそなたは……

「おねがい、します。ルークの……ために」

 声に呼応するように、彼の髪からふわりと音素がひとつ外れた。もうひとつ、ふたつと。
 主の身体を離れた音素は恐る恐る焔に寄り添い、そうして主と同じ願いを囁く。そうしている間にも、ジェイドの身体からは音素たちが離れて行く。
 焔は、決断するしか無かった。

 ────契約は成立した。

 何故なら、己もまたこの男と同じ願いを心の中に持っていたのだから。


PREV BACK NEXT