紅瞳の秘預言 104 契約

「そして、我とこの者の記憶は……時を、さかのぼった……」

 ティアの口から、ローレライの言葉が漏れる。彼女に宿ることを良しとしなかった意識集合体は、伝言と言う形で彼女の口を借り子どもたちに言葉を伝えていた。
 譜陣を取り巻くように、第七音素の風が吹き荒れている。その中心にぼんやりと佇んでいるジェイドの顔からは、感情が全て剥がれ落ちていた。恐らくもう、意識は無いのだろう。
 そうして、彼を包み込む焔は今や地核から解き放たれた、ローレライそのものだった。

「この世界に存在する、ジェイドに関わる記憶?」

 ティアの声で聞かされた言葉を、ルークは口の中で反芻する。この幼子には、その意味するところをはっきりと理解することが出来ていない。

「それで、契約を成立させたの? ほんとに馬鹿でしょ!」

 対してシンクは、ぎりぎりと歯を噛み締めた。頭の回転が速いこの子どもは、ローレライの言葉の意味をすぐに悟った。悟ってしまったが故に彼は、目に宿った憎悪を隠すこと無くローレライを睨みつけている。

「どう言うことなんだよ、シンク」

 狼狽えているルークにシンクが向けた視線からは、負の感情は薄れている。この『兄』が少し頭の回転が鈍いのは、知識を制限されていた後遺症と言っても良いものだから。
 他の仲間たちも気づいてはいるだろうが、ルークはシンクの名を呼んだ。ならば呼ばれた自分が、説明をすべきだろう。

「……ジェイドがローレライに払う対価の中には、僕たちがジェイドのことを覚えてるって言う記憶も含まれてるんだよ。世界に存在する全ての記憶なんだから、つまりそう言うことだろ」
「え」

 ほんの一瞬、ルークの思考が停止した。再び動き始めたのは、アリエッタの単純な疑問の言葉を耳にしたときだ。

「アリエッタが覚えてるジェイドの記憶も、ローレライにあげちゃうの?」
「そうですね。全て、ですから」

 俯きながら彼女に答えるサフィールの言葉に、朱赤の焔は背筋をぞくりと震わせる。やっと、シンクが言った言葉の意味が理解出来たのだ。

「じゃ、じゃあ、その対価を支払ったら……」
「俺たちは、旦那のことを忘れてしまう。いや、最初から知らなかったことになるのかも……な」

 視線を向けられて、ガイが青い目を曇らせた。握り締められた拳が、小刻みに震えている。ナタリアも目を伏せて、隣にいるアッシュの手をぎゅっと握った。

「ええ。オールドラントから、ジェイド・カーティス大佐と言う存在が消えてしまうのですわ」
「だ、だってジェイドがいなくなったら、フォミクリーはっ……」
「ディストがいる。元々の技術はともかく、譜業を開発したのはこいつだからな」

 だから、安心して後を託せるのだろう。自身が消えても、譜業の天才と言われた幼なじみがいるのだから。
 アッシュは苦々しげに、自身が受け取ったジェイドの思いを吐き捨てた。

 ──朱赤の焔に未来を与える、と言う契約はここに完了した。
 全ての記憶粒子の内この者縁の記憶を持つものは、我の下に集約される。
 そして、我はかねての望み通り音譜帯に上がる。

 ティアの口を借りてそう宣言し、ゆらりと焔が揺れる。それに流されるように、ジェイドのくすんだ金髪が揺らめいた。その口元がほんの僅かほころんでいることに気づいて、ルークは顔をしかめる。
 そんな笑顔なんて、見たく無いのに。

「なんでジェイドは、そんな契約なんて……」
「それだけ旦那は、お前に生きて欲しかったんだろ。……馬鹿だよな、旦那も」

 泣きそうな、それでも笑みを浮かべてガイは、養い子の頭を撫でてやる。そんなことが慰めになるなどとは、これっぽっちも思っていないけれど。
 そして、納得がいかないのはルークやガイだけでは無い。

「ねえ、ローレライ。そんなのおかしいよ」

 アニスが声を張り上げた。泣きそうな顔をして、足をだんだんと踏み鳴らして少女は、自身の思いをぶちまける。彼女の背中でゆらゆらと揺れるトクナガも、その感情に同調しているかのようだ。

「大佐はルークに生きて欲しくて、ルークやあたしたちが幸せに生きられる世界を作りたくて、一所懸命に頑張って来たんでしょ!? それなのに、その世界に大佐がいられないなんて絶対おかしいよ! 一番頑張った大佐が幸せになれないなんて、そんなのむちゃくちゃじゃない!」
「それが、ジェイドのルークに対する贖罪の現れなんだと思いますよ」

 年端も行かない少女のストレートな感情の発露に対する答えは、銀髪の譜業使いが言葉にした。金の髪の青年が生まれるよりも前からジェイドを知っている彼だけが、恐らく答えることの出来る問題だから。

「……私の知っているジェイドは、罪悪感って言うものを知りませんでした。コーラル城で話をしたときにはもう持っていたみたいですから、多分『前回』の貴方に対して持ったのが初めてだったんでしょうね」

 じっとジェイドを見つめたまま、サフィールは言葉を続ける。ルークに視線を向けないのは、ジェイドから目を離してしまうことで彼の記憶を奪われるのを恐れているからだろうか。

「ジェイドは罪悪感を知らなかった。知らなかったと言うことは、その感情への対処法も知らないと言うことなんです。表面的な謝罪なんかは出来ますけれど、そこに感情は絡んでいません」

 幼い頃から彼を知る者の言葉が、訥々と紡がれて行く。子どもたちも、そして意識集合体もその言葉を遮ることは無い。

「貴方が自分のせいで要らない罪を背負って、自分のせいで心を壊して、自分のせいで死んでしまった。少なくともジェイドはそう思い込んで、どうしたら貴方が救われるか、どうしたら貴方に許して貰えるか必死で考えてたんだと思います。初めて心に浮かんだ、罪悪感と言う感情に振り回されながら」
「許して、って……」

 意外な言葉を耳にして、ルークは目を見開いた。今ここに生きている自分と『前の世界』の自分が同じ思考を持っているかどうかは分からないけれど、どうして自分がジェイドに許しを与える必要があるのだろうか。
 もしかして、『前の自分』が死に至ったことについてだろうか。

「実際に『前の世界』で起きた出来事について、私たちはジェイドの言葉以外に知るすべを持ちません。けれどジェイド自身は、自分はルークに対して許されないことをしてしまったのだと思い込んでいたんでしょうね。意外と思い込みの強いたちなんです」

 言葉を紡ぎながらサフィールは、虚ろな表情のジェイドから絶対に視線を外さない。それがローレライに対する、彼なりの抗議なのだろう。
 記憶を奪われる瞬間まで、優しい譜術士のことを忘れてたまるかと言う。

「それで出した答えが、自分をお前の身代わりにすると言うことだったってことか」

 小さく溜息をついたアッシュの口から漏れた言葉が、子どもたちの表情を暗くした。思い当たる節など、それこそ山のようにあるのだから。
 封印術で力を奪われていたにも関わらずジェイドはルークを庇って、結果として肩を斬られた。ほんの僅かな左手の麻痺はほとんど目立たなくなっているけれど、それでも時折動きが鈍るのが分かる。
 あの後彼は、自身の負傷に対し当然だと言う顔をしていた。
 ……当然、だったのだろう。
 『かつて』音素乖離と大爆発、2つの致死条件を背負わせてしまった子どもに未来を与えるためならば肩の傷など、物の数では無い。

「ええ。ジェイドはきっとそれ以外に、贖罪の方法を知らないから」

 頷いたサフィールの言葉に、ふとルークは気づいた。
 カイツール軍港で襲われ、コーラル城へと連れて行かれた。
 失言をきっかけに、同行者たちから孤立してしまった。
 ヴァンの操り人形にされて、彼のために持てる力を使わされた。
 それらは全て、『前の世界』で自身が経験したことなのだ。ジェイドが『未来の記憶』について語ってくれた話の中に、それらのエピソードが出て来ていたのだから。
 だが『この世界』では、意図的にかそうで無いかは分からないがそれらはジェイドの身に起きてしまった。それはきっと、ジェイドがルークを守りたかったから。ルークを傷つける要因が自らに振り向けられるよう、ジェイドは無意識のうちに動いていたのだろう。
 そして、最終的に自身を忘れさせることで、ジェイドは全てを終わらせる。
 ルークは優しいから、己を救う代わりに誰かが死ねばきっと悲しむ。それならいっそ、その誰かのことを忘れてしまえば良い。
 そうして皆は、掴んだ未来を生きて行く。『親しい仲間たちが誰も死ななかった』世界で。
 1人忘れられた男は、意識集合体の懐で永遠の眠りに就く。恐らく『彼の記憶』を内包した記憶粒子が解放されることは無く、ジェイド・カーティスと言う人間は過去にも未来にも存在していないことになるのだろう。
 それでも、ルークが笑っていてくれればそれで良いから。

 だから、『夢』の中でジェイドは、己の消滅に際しとても幸せそうに笑っていたのだ。


PREV BACK NEXT