紅瞳の秘預言 105 回帰

「……私には、生きる権利など無いんですよ」
「権利とか何とか、そんなの知らねえ!」

 だがその思いは、当の焔に一蹴される。目の前で手を伸ばし、『我が子』の1人である幼子は必死に叫ぶ。

「俺は、ジェイドに生きて欲しいんだ!」

 私は、ルークに生きて欲しい。

 『かつて』自分が望んで叶えられなかった言葉を、この子どもは口にしている。
 自分と同じ悲しみを、この子に味合わせたくは無い。

 けれど。

「わたし、は……」

 思わず上げかけた左の腕を、ジェイドは無理矢理に右手で抱え込む。
 手を伸ばしてはいけない。
 焔の子が伸ばした手を払ったのは、自分だから。

「わたしは、本当は」

 生きていてはいけない。
 焔の子に死を命じたのは、自分だから。
 全てをローレライに明け渡し、ここで消えなければならない。

 けれど。

「生きて、いたい」

 それでもジェイドは、胸の中に凝り固まっていた思いをついに言葉にした。
 生命なんて惜しくない。けれど、我が子や仲間たちと一緒に未来を生きたい。
 許されない思いかも知れないけれど。

 死にたくない!

 あの時、短い髪のルークが思っていたのと同じように。
 私も、死にたくない。

 ──ええ。貴方が死ぬ必要は、ありません。

 不意に届いた『ジェイドの声』と共に、ジェイドの背を誰かの手がとんと押した。ふらりと揺れた青い身体が、そのままバランスを崩してルークの方に倒れかかる。

「ジェイド!」

 思わず手を広げてジェイドを抱き留め、ルークはゆっくりと腰を落とした。身体に力が入らないのか、ジェイドは自身をぐったりと我が子に預けたまま動けないでいる。

「ジェイドっ!」
「旦那!」
「大佐ぁ!」

 子どもたちが、一斉に駆け寄って来る。彼らの接近を邪魔していたはずの炎はふわりと舞い上がり、道を開けた。

 ──消えるのは、私だけですよ。

 再び聞こえた声。ジェイドと同じ、けれど違うその声がした方向に皆が目を向けた。
 たった今までジェイドが立っていた、譜陣の中央。そこには、朧気に己の姿を揺らめかせて『ジェイド』が立っている。端正な顔に、破れた服の合間から見える肌に、譜陣を刻んだその人が。

 ──やっと、貴方から離れることが出来ました。
 そうで無ければ私は貴方ごと、ローレライの懐で眠ることになっていたかも知れません。

「……ジェイ、ド?」

 朱赤の焔に名を呼ばれて、『ジェイド』はふわりと微笑んだ。今を生きているジェイドと同じ、けれどもっと哀しい笑顔で彼は、ゆっくりと言葉にならない言葉を紡ぐ。

 ──もう、良いでしょう?
 貴方がたの世界へ帰りなさい。
 存在しなかった思い出は、私が持って行きますから。

「……『前の世界』のジェイド、なんですね?」

 サフィールが、確信したように問いかける。『ジェイド』の小さな頷きは、それを肯定するもので。

 ──サフィール。『私』の言葉を聞いてくれてありがとうございます。
 貴方がいてくれたから、私の願いは叶えられた。

「馬鹿ですね。私じゃなくて、貴方がいたからに決まってるじゃありませんか」

 白い頬をほんのり赤く染めて、サフィールはふいと横を向いた。ぐすりと鼻をすする音が聞こえたのは、気のせいだろうか。アニスがポケットから引っ張り出したハンカチを、その顔に押し付けてやる。
 『前の世界』のジェイド……即ち今のジェイドに『未来の記憶』を与え、彼らが進むべき道を示してくれたその人を前にして、子どもたちは掛ける言葉を知らなかった。その中でどうにか口を開くことが出来たのはルークと、そしてジェイド本人だけである。

「ありがと、な。俺は、あんたのことも忘れない。だって、あんたのおかげで俺は」
「……ありがとう。貴方のおかげで、この子たちは」

 救われた、と言う言葉は2人とも、口にすることは出来なかった。
 おそらくは、今目の前に存在している『ジェイド』に遠慮してのことだったのだろう。
 今生きているジェイドが救われたとしても、音素に解けてまで願いを叶えようとしたこの人は未来永劫、救われることは無いのだろうから。

 ──礼を言うのは、私の方です。
 私が叶えられなかった願いを、叶えてくれてありがとうございます。

 自身の末路を知っているのだろうが、『ジェイド』はそれでも笑顔を崩すことは無かった。そうして子どもたちと、もう1人の己を視界に収める。
 ローレライの焔の中に解けていきながら、彼はとても幸せそうに最後の言葉を紡いだ。

 ──どうぞ、お元気で。
 貴方も、皆も、幸せになるんですよ。

「うん」

 大きく頷いたルークの腕の中で、ジェイドもまた小さく頷く。そうして、「さよなら」と口の中だけで呟いた。
 その声が届いたのかどうかは、誰にも分からない。けれど『ジェイド』は笑顔のまま、ローレライの焔に溶け込むようにその姿を消し去って行く。

 ──どうか、幸せに。
 人としての生を、全うして欲しい。

 そしてローレライも、どこか安堵したように別れの言葉を紡ぐ。ティアの口から己の言葉が流れ出たのを合図に、焔は一度強く渦を巻くとそのまま空へ舞い上がって行った。
 『前回』はルークをこの場に残し、ジェイドはエルドラントの外からこの光の上昇を見た。あの時と異なり、今ルークは自分のそばにいる。そうして自分も、未だ世界に存在している。
 ローレライは、契約の対価を受け取った。『前の世界におけるジェイド・カーティス』を……『もはや生きることは叶わない譜眼の主』を。
 だから、『今の世界に生きるジェイド・カーティス』は残った。救われた子どもたちと共に、未来に生きて行くために。

「……私は、幸せになっても」

 ルークに体重を全て預けたまま、ジェイドは問う。それに対し、朱赤の焔はにっこりと笑って答える。

「良いんだよ。ううん、幸せにならなきゃ駄目だ。だって、ジェイドは頑張ったんだから」

 長い旅を共にしてきた子どもたちも、ルークの言葉にうんうんと頷いた。子どもたちの思いが、声にならない言葉が、ジェイドの心に染み渡る。

「──はい」

 薄く閉じられた真紅の瞳から、一筋涙が流れた。ジェイドが感情を伴った涙を流したのはきっと、これが生まれて初めてだろう。
 そして、それが嬉し涙だった事は彼にとって、とても幸せなことでは無いだろうか。


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