紅瞳の秘預言 Epilogue 未来

 そして、ふと思い立った言葉を彼は口にした。

「褒美をやりたいと思うのだが、何か無いか?」
「……休暇を、いただけないでしょうか」

 手を下ろしながら、ジェイドはおずおずと答える。そう言えば、キムラスカへの特使として彼を送り出してからまともに休暇を取らせていなかったことを思い出し、ピオニーはゆるりと頷いた。

「どのくらいだ?」
「わかりません……ですが、必ず……戻ります」
「そうか」

 実のところ、期間などいくらでも融通出来る。それよりも何よりもピオニーは、ジェイドが自らの下に戻ってきてくれる確証が欲しかった。ジェイドもそれはきっと分かっていて、だからそう答えたのだろう。
 必ず戻るのならば、大丈夫。

「分かった。必ず戻れ」
「……はい……」

 皇帝の許しを得たことで、ジェイドの意識の糸がぷつりと切れた。ふらりと崩れ落ちる身体を、ピオニーは何の躊躇いもなく腕を伸ばして抱き止める。

「お疲れ。よく頑張ったな」

 抱き上げた褐色の腕の中で、死霊使いと恐れられた男は穏やかな寝息を立てていた。くすんだ金の髪に軽く頬を摺り寄せてピオニーは、落ち着いた笑みを浮かべる。

「ピオニー陛下、ジェイドは……」
「無茶ばっかりしてやがったからな。休暇だ休暇」

 恐る恐る問うたイオンに、皇帝の意図的に明るく紡がれた声が返って来た。
 不思議そうに首を傾げているインゴベルト王には、ナタリアとアッシュが語りかけている。
 イオンには、彼の守り役である2人の少女と『兄』に当たる少年が。
 狼狽えているルークを、ティアとガイが支えてやっている。
 そうしてサフィールは、じっとピオニーを見つめている。正確に言えば、彼の腕の中で眠りについた親友を。

 ジェイドは、きっと最高の形で自らの夢を叶えた。
 次は俺の番だな。

「さて。俺はこれから、皇帝として一仕事しなくちゃいかん。サフィール、ついてこい」

 作ったものでは無い笑みをその顔に浮かべ、ピオニーは声を張り上げた。名を呼ばれてはっと目を見張る幼なじみにまっすぐ視線を向けて、思いを込めた言葉を続ける。

「ジェイドが目を覚ましたときに、今より少しでも良い世界にしておいてやりたいじゃないか。生きていて良かった、ってジェイドが思えるように」
「……ええ、もちろんですね」

 生きていて良かった。
 ピオニーは知らないけれど、自ら消えるつもりだったジェイドを引き止めたのは、ルークを初めとした子どもたちの言葉だった。その言葉にジェイドは己が生きていて良いのだと、幸せになって良いのだとやっと気がついたから。
 ならば、具体的に世界を良くするためには大人である自身が動かねば。

「分かりました、ついていってあげましょう」

 どんと薄い胸を叩いて、サフィールは大きく頷いてみせた。自らが仕える皇帝に対する態度としてはあまりにも無礼なものだけれど、ピオニーは最初からそれを許している。
 子どもたちの姿を見ていて皇帝は、ふと思い出した。ほんの数時間前に、もう1人の盟主と交わした約束を。
 しかし、その約束を叶えるには自らよりもっと適役がいる。

「その前に皆、ちょっと頼みがあるんだ」

 それは、ジェイドと共に世界を救うための戦いを終えてきた子どもたち。故にピオニーは、彼らに声を掛けた。色とりどりの視線が集まる中、言葉を返してきたのは朱赤の焔だけだった。

「何ですか? 陛下」
「インゴベルト王に、話をしてやってくれないか。俺たちが預言を変えられると気づいた、そのきっかけを」

 ジェイドがこんなに疲れきってまで、世界を変えようとしたその理由。
 これから世界を率いていく1人であるこの王にも、子どもたちが心を1つに戦った理由を知って貰いたい。
 その思いを伝えるには、焔とその友人たちが最適任であるはずだ。


 ゆっくり上がっていく昇降機の中で、ふとルークはジェイドの顔を見上げた。2人は並んで外の風景を眺めていたから、ジェイドがすぐにその視線に気づいたのは自然な流れだろう。

「どうしました? ルーク」
「そういえばジェイド、『前の世界』の記憶だいぶ薄れたってガイに聞いたけど、ほんと?」
「え?」

 問われてジェイドは、少し考え込むような表情になる。2年前まではムラこそあれはっきりと『思い出す』ことの出来た『未来の記憶』は、そのほとんどがぼやけて霞でもかかったように朧気にしか出てこなくなっていた。

「…………そう、ですね。もうぼんやりと、夢でも見ていたような……」
「ふーん。ほんとに持ってっちゃったんだね」

 2人の会話を聞いていたシンクが、苦笑交じりに肩をすくめた。
 『前の世界のジェイド』は、ローレライと共に空に消える際に『未来の記憶』を持っていくと言い残していた。そもそもは『彼』自身の記憶だったのだから、返すのが当然といえば当然だろう。

「でもまあ、今にしてみたら本当、夢だったんだって思えばいいんだよね。だって僕もルークも、みんな生きてるし」
「そうですねえ。結局私なんかはほとんど伝聞でしか知りませんでしたし、世界は既に違う道を辿っていますからね」

 頭の後ろで腕を組みながらシンクが呆れたようにこぼし、サフィールはどこか『父親』の顔をしてゆったりと頷く。そう、世界はユリア・ジュエの預言とも『記憶』とも異なる歴史を紡いでいるのだ。
 それに、『記憶』は明日の分までしか無かったはずだった。成人の儀の当日に『ルークを食い潰した』アッシュが帰還し、その翌朝早くにはもうジェイドはレムの塔へ向かったのだから。

「必要無いもんな。もう」

 無邪気に笑ってルークは、ジェイドの腕にしがみついた。戦いの中で短く切られることも無く丁寧に整えられた朱赤の髪を、ジェイドはゆったりと撫でてやる。
 毛先の金は今も消えないまま、ルークは大人になる。ジェイドが考えサフィールが完成させた研究成果により、2人の焔が大爆発を起こすことはもう無い。
 だからもう、彼らを導いてくれた『前の世界の記憶』は必要無い。ユリアの第七譜石がもう、必要無いのと同じように。

「あ、そうそう」

 ふとシンクが、何かを思い出したように顔を上げた。懐を探り、蝋で封をされた白い封筒を取り出す。

「あんた宛に、導師とフローリアンから手紙預かってたんだ。たまにはダアトに遊びに来てってさ」
「……はい。そのうち、お邪魔させて貰いますね」

 彼の『弟』に当たる2人の名が裏に記された封筒を、ジェイドは幸せそうな笑顔で受け取った。


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