LAVENDER 1.PRETTY DOLL
「ルカは寝ちゃったの?」

 不意に背後から掛けられた声に、青年が動じることはなかった。少女は足音を消すことなく歩み寄ってきていたし、下手に動くことはルカの眠りを妨げることにもなるから。

「私と会ったとき、フレイムナイトに追われていましたからね。心身共に負担が掛かっていたようです……リディア、でしたね」
「うん。やっぱ気がついてた?」

 無邪気な笑みを浮かべながら歩み寄ったリディアは、『ラベンダー』との間にルカを挟むように座った。ひょいと身を乗り出し、ぐっすりと眠り込んでいる幼い少女の顔を見つめる。

「あらら、幸せそうな寝顔しちゃって。すっかり信頼されてるわね、あなた」

 そう言いながら、リディアの視線はルカから『ラベンダー』へと移される。青年もリディアを見つめ返したのだが、その顔にふとくらい影がよぎったのをリディアは見逃さなかった。

「? どうしたの? 『ラベンダー』」

 僅かにうつむくことで、青年の表情は少女から見えにくくなる。彼の感情を読み取ろうと顔を覗き込んだリディアに、『ラベンダー』の問いが投げかけられた。

「……間違いなら済みません。リディア、私はあなたとどこかで会ったことがありませんか?」
「え?」
「……人違いかもしれません。どこか暗いところで、あなたと同じ色の髪を持った……ルカ王女よりもう少し小さな女の子の姿を、見たことがあるような……」

 青年の言葉は、不安定な感情を映し出したように揺らいでいる。彼自身には勘違いかもしれないと思われたその光景を、リディアは鮮明に思い出していた。あれは、どこの城だったか。


「ねえ、『ラベンダー』。地上に行ってみない?」

 唐突に、リディアが明るい口調で話しかけてきた。口調の変化にはっと顔を上げた『ラベンダー』の視界に入ったのは、ふわりと柔らかな笑みを浮かべたリディアの顔だった。

「地上、ですか?」
「うん」

 問いを返した青年に大きく頷いてみせ、リディアは話を続ける。

「地上にはね、バロン・ダムシアン・トロイア・ファブール・ミシディア、それからエブラーナと合計六つの国があるの。ここもそうだけどどの国もいい人たちばかりだし、あたしあちこちに知り合いがいるから。ね、行ってみない?」

 まっすぐに自分を見つめる純粋な瞳に、『ラベンダー』は確かに見覚えがあった。しかし、その微かな記憶は辿る間もなく霧散する。

「……世界を巡れば、あるいは私の記憶が戻る……かも、しれませんね」
「うん」

 『ラベンダー』の言葉が自分の提案をきょひするものではないことに、リディアは満面の笑顔を見せる。が、その直後彼女は不安げな表情をかいま見せ、そして呟いた。

「でも、記憶戻ったら、辛いかもしれないよ?」

 その言葉が青年の耳に届くことはなかったのだけれど。


 数日後。
 地上のエブラーナからやってきた飛空艇ファルコンが再び飛び立つ準備をしている前に、リディアは『ラベンダー』を伴って立っていた。地上と地底とは飛空艇による貿易交流が開始されており、二つの世界を行き来する旅客も少ないながら存在する。そしてリディアは、その数少ない旅客のひとりとして地底を発つのだ。

「リディアも『ラベンダー』殿も達者でな。また遊びに来るといい」
「はい。陛下もお元気で」

 客人の旅立ちということでわざわざ見送りにやってきたジオット王が、名残惜しそうに二人の手を交互に握る。そのすぐ脇で、ルカが青年をじーっと見上げていた。

「行っちゃうんですね」
「許してもらえるなら、また遊びに来ますよ。ルカ王女」

 『ラベンダー』は少し困ったような笑顔を見せながら、ルカの頭をそっと撫でる。それから、ふと思い出したように足元に置いてあったものを取り上げた。

「……そうだ。王女、渡したいものがあったんです」
「え? あ、はい」

 慌ててルカが両手を差し出すと、その上に包みが一つ置かれた。いぶかしげに青年を見上げる少女に、彼はやはり困ったような顔のまま告げる。

「王女のものだと思ったんですが……間違っていたらお好きに」
「よっし。『ラベンダー』、行きましょ」

 リディアに促され、青年はファルコンのタラップを上がっていった。その姿が艇内に消える寸前、二人は振り返ってもう一度手を振った。


 ファルコンの機体が地上への抜け穴へと消えていった後、ルカは手渡された包みを無造作に開け始めた。ジオット王が、興味津々の表情で横から覗き込む。

「何が入ってるんじゃ? ルカ」
「ん〜、もうちょっと………………あー!」

 突然大声を上げた娘の手から、包み紙がびりびりの破片になって滑り落ちる。まともに声を耳にした父親の方は、びっくりして後ろに倒れかけ、尻餅をついた。

「なっ、何じゃ!?」
「父上、これわたしのお人形!」

 目を白黒させながら問うたジオット王に、ルカは包みの中身を突き出した。それは、少女が幼い頃から大切にしていた人形だった。

「何で? だってこのお人形、ゴルベーザに……!」

 ルカが戸惑うのも無理はなかった。
 かつて、闇のクリスタルを求め地底を訪れたセシルたちを倒すために、ゴルベーザはルカの人形に邪悪な疑似生命を吹き込みモンスター・カルコブリーナとして送り込んだ。無論セシルたちの活躍によりカルコブリーナも、続けて現れたゴルベーザも撃退することができたのだったが。

「……うーむ、リディアの言う通りじゃったか」
 ここに来て、ジオット王はリディアから聞かされた事実を認めざるを得なかった。そして、果たしてルカにもそれを話すべきか、と悩み始めるのだった。


 青い空の下、ファルコンは目的地をその眼下に収めていた。エブラーナの大地の北側には巨大な穴が開き、そこから地底を基点とするバブイルの塔が天空に向かってそそり立っている。
 頂上の見えない塔を視線で辿りながら『ラベンダー』は、リディアにそっと尋ねた。

「リディア。あなたは私のことを、どこまでご存じなのですか?」
「さあね。どこまでって言われても、基準がないもの」

 緑色の髪の少女は、そう交わして微笑んだ。それから身を翻しかけ……立ち止まって、言葉を続けた。

「でも、あなたは自分で思い出した方が良いと思う。あなた自身のためにも」

 そして青年に背中を向けたリディアは、自分以外の誰にも聞き取れないほどの微かな声で呟いた。普段は誰にも見せることのない、辛そうな表情で。

「ごめんねセシル、ゴルベーザ……もしかしたらまた、あなたたちに辛い思いさせるかもしれない」


 着陸態勢に入ったファルコン。到着地点であるエブラーナの発着場でリディアの到着を今や遅しと待ちかまえているのは現国王……かつて邪悪を滅ぼした若者のひとり、エドワード=ジェラルダイン。
 彼は、花の名を持つ青年がファルコンに乗り込んでいることをまだ、知らない。
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