LAVENDER 2.FIERY MIND
「わ〜か〜!!」

 エブラーナ城の朝は、この大声で始まる。朝っぱらから年甲斐もなく大きな声を張り上げているのはこの城に長年務めている家老。呼ばれている相手、即ち『若』とはエドワード=ジェラルダイン、通称エッジ。先代国王夫妻の死後、若き王としてエブラーナを治めている青年だ。

「若〜! 早う起きなされ、日はもうとっくに出ておりますぞ〜!」

 この若殿様、夜遊び好きが災いして朝に弱いというのが家老の悩みの種である。実際には秘密の修練場で修行していたりすることも家老は調べ上げているのだが、やはり朝は早く起きてもらいたいものらしい。
 が、この日はいつもとは様子が違っていた。

「若! 今日が何の日か分かっておいでなのでしょうなっ!」

 毎朝おなじみとなってしまった怒鳴り声を上げながら、家老がエッジの私室の扉を開ける。次の瞬間、その頭上からばしゃりと水が降ってきた。

「おおわっ!?」

 慌てた家老、床に溜まった水に足を取られすってんころりと後ろに転ぶ。おかげで全身、下着までびしょ濡れになってしまった。さすがにこんな状況は、そうそうあるものではない。

「っせーぞ、じい! ちゃ〜んと起きてるだろ!」

 水を払おうと顔を振る家老の頭上から、少し怒ったような青年の声が落ちてくる。慌てて家老が身体を起こすと、目の前にはとうの昔に身だしなみを整えたエッジの姿があった。両手で印を組んでいるところからして、水の出所はエブラーナに伝わる忍術の一つ『水遁』であろう

「……あ、わ、若、お目覚めでしたか……おはようございます。これはまた珍しい」
「悪かったな。俺だってこんな日くらいちゃんと起きるって」

 老練の軍人をたじろがせるほどの威圧感を持つ家老も、この奔放な性格の国王にとっては単なる『じい』でしかない。やれやれ、と溜息をつきながら家老は、ずぶ濡れになった衣服の裾を絞った。

「ま、お目覚めならばよろしいです。で、朝食は」
「食うに決まってんだろ。朝から忍術使って腹減っちまったし、変なところで虫が鳴いたらあいつに笑われらぁ」

 一瞬つまらなそうな表情を浮かべ、エッジは家老に手を差し伸べた。ひょいと持ち上げられるように家老が立ち上がると、その顔に大きな手ぬぐいをかぶせてから部屋の外へと歩き出す。
 ……が、ふと立ち止まり、エッジは家老を振り返った。

「じい、ファルコンの到着は十一時過ぎだったっけ」
「はい、その予定です」
「分かった」

 時間を確認したエッジの表情が、途端に明るいものになる。その理由はエブラーナの民であれば誰もが知っていた。ファルコンに乗って国へとやってくる、ひとりの少女。

「へへっ、久しぶりだな。元気かな、リディア」


 エブラーナ城の西、平原に設けられた飛空艇発着場に、予定時刻を僅かに遅れてファルコンがその巨体を下ろした。船腹からタラップが伸び、エッジが待ち焦がれていた顔が入口から覗く。

「うおーい、リディアー! こっちこっち!」
「あ、エッジー! 元気そうねー!」

 大きく手を振るエッジに、緑の髪の少女も同じように手を振って答えながら一目散にタラップを駆け下りてきた。後十段ほどで地面に降り立つというところで、少女の足は段を蹴り、ふわりとその身を空中へと躍らせる。

「おわっ!?」

 慌てて駆け寄ったエッジの腕の中に、すっぽり収まるリディアの柔らかな身体。素早い身のこなしで、少女は青年に横抱きにされた。

「あはは、ナイスキャッチだねっ」
「ナイスキャッチじゃねーだろ、危ねーなあもう」

 腕の中で無邪気に微笑むリディアに、エッジは心配そうな表情でぼやいた。さすがに、リディアも反省を顔に浮かべ、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。それから、ぱっと顔を上げて明るく微笑む。

「あー。あのねエッジ、一緒に来た人がいるんだ」
「一緒に? 何、ジオットさんか?」

 少女を地面に下ろしながら問うエッジに、リディアは首を横に振った。

「じゃあルカちゃんか?」
「違う違う。ドワーフさんじゃなくって人間の男の人」
「おとっ!?」

 ニコニコしながらリディアが口にした『男』という単語に、エッジが敏感に反応する。少女の両肩をがっと捕らえ、真正面からその顔を覗き込む青年の表情は大変に深刻だ。

「おと、おとこってリディア、どういうこった今すぐ説明しろ一体何がどういうわけだっ!?」
「どうどう。落ち着いてよねー、別にあたしとどうこうじゃなくって、エッジも知ってる人だから」

 両手を挙げて抑える仕草。恐らくリディアはエッジの反応を予測していたのだろう、実に落ち着いている。
 対してエッジは、リディアの答えに目をしばたたかせた。リディアとエッジ共通の知人で、地底から来た人間。彼の記憶の中には現在のところ、該当する人物が存在していない。

「俺知ってる人って、地底に出張してる奴いたっけ?」
「出張とかそういうことじゃなくて……ええとね、記憶喪失でほんとの名前教えてないから、それだけ注意してね」

 いまいち状況を掴み切れていないエッジにそれだけを言い含め、リディアはファルコンの入口を振り仰いだ。

「『ラベンダー』、ごめんね待たせちゃって。降りてきて〜」
「はい、リディア」

 少女の声に返答があり、その言葉を追いかけるように船内からひとりの男性が姿を現した。落ち着いた色の粗末なローブに、淡い色の髪を持つ青年。その顔を見たエッジが驚きを顔に表すのに、そう時間は掛からなかった。

「…………へ? マジ?」
「分かった? ほんとに前のこと覚えてないからね、彼。今の名前『ラベンダー』だから」
「え、ええとまあ、リディアがそう言うんなら」

 むー、と頬を膨らませた少女にこくこくと頷いて、エッジはタラップを降りきった『ラベンダー』と真正面から向き合った。この男、納得してしまえば懐は広い。にやりと不敵な笑みを浮かべ、右手を差し出した。

「っと、『ラベンダー』っつーんだって? 俺はエドワード=ジェラルダイン。エッジって呼んでくれや」
「はい、エッジ。よろしくお願いします」

 気さくなあいさつに、『ラベンダー』もふわりと微笑みながらエッジの手を握り返す。意外に柔らかなその感触に、エッジは内心感心していた。対照的に自分のこっそり修行三昧故にマメや傷の多い手を、思わずじっと見つめる。

「こっちゃこそよろしく……へえ、魔導士って手ぇ柔らかいな」

 思わず口に出してしまったその言葉を、『ラベンダー』は聞き逃さなかった。真剣なまなざしが、しまったという表情のエッジに注がれる。

「……ご存じなんですか? 私のこと」
「あー……あんまり知ってるわけじゃねえ。リディアと同じくらいかな」

 握手を解き、自分の白い髪をがりがりと書きながらそっぽを向くエッジ。が、すぐに視線は青年へと戻された。開き直りとも取れるその目は、嘘をついているようには見えない。
 と、不意にエッジが自分の背後を振り返った。そこに控えている、ちゃんと新しい服に着替えて着いてきた家老に声を掛ける。

「ああ、そうだ。こっちもさ、紹介したい奴いるんだよな。おーい、じい」
「はいはい、何でしょうか若」
「はいは一回、っつったのはじいだぞ」

 コントとも思える若殿と家老の会話に、リディアと『ラベンダー』は顔を見合わせて苦笑した。これだけ王と部下の息が合っているのならば、国の状態もそれなりに安定しているのだろう、と青年は思考を巡らせる。

「あのさ、ルウは今日も地下か? 起きてから顔見てねえんだけど」

 が、その思考はリディアのこめかみがぴくりと動いたことで止まった。口の端もひくひくと引きつっているところを見ると、どうやらこの少女はエッジの呼んだ名に反応して感情が不安定になったようだ。

「はい、まだお籠もりのようです」
「そっか、さんきゅ。地下だって、行こうぜ……って何、リディア」

 家老の答えに満足そうに頷いて振り向いたエッジの視界に、リディアの引きつった顔が入る。思わずぴたりと動きを止めてしまった青年の顔を、少女は下から覗き込むように見上げた。

「……ちょっとエッジ〜、ルウって誰ー?」

 リディアの言葉に含まれた怒気。僅かな間何を言われているか分からなかったエッジだったが、すぐに少女の言葉に含まれた意味を理解してぷっと吹き出した。

「……あ、もしかしてリディア、女だと思った?」
「違うんですか?」

 ルウ、という言葉の響きからそう感じていた『ラベンダー』も問い返す。エッジは自分を見つめる二人の顔を交互に見比べて、肩をすくめた。

「んー、厳密にはどっちでもなさそうだけどな。一応外見基準だと男だ、リディアの期待に添えなくて悪いなー。ちなみにルウは愛称」
「誰も期待してないわよ」

 どうやら、少女の推測は外れたらしい。それでもまだ拗ねているリディアの肩を、『ラベンダー』は軽く叩いた。

「リディア、行きましょう。会ってみないとね」
「……はぁい」

 柔らかな笑顔でそう言われては、リディアも頷かないわけにはいかなかった。
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