LAVENDER 3.TENDER GHOST
 トロイアは森と水に恵まれた国である。城壁のすぐ外はもう深い森であり、そこには数多くの動植物が生息している。また城の西にそそり立つ岩山のすぐ向こうには、トロイア観光の目玉でもある二つの湖とそれらを結ぶ美しい滝が自らの姿を誇っている。
 ひとりでこの国を訪れた淡い色の髪を持つ青年も、その美しさと雄大さにしばし目を奪われていた。

「……素晴らしい景色ですね」
「綺麗なもんじゃろ」

 青年……『ラベンダー』をここまで案内してきた老人は、にんまりと眼を細めて笑う。見事な白い髪と髭に丸い眼鏡、肉こそかなりそげ落ちてはいるがそれでもがっしりとした体つきのその老人は、街の酒場で女たちに取り囲まれ四苦八苦していた青年を自分の知り合いだと言って連れ出してきたのだった。

「……それにしても、本当にありがとうございました。ああいうときにはどう対処して良いか分からなかったもので」

 頭を下げる『ラベンダー』に、老人は軽く手を振って答えた。

「ああいやいや、構わんよ。お主のようななかなかの男前、トロイアの女は放すまいて。そうでもなければ、この国などあっという間に滅びるしの」
「どういうことでしょうか?」

 青年が感じた素直な疑問。だが、老人はそこに目を丸くした。それも無理はない……この世界で、彼が疑問に思ったことは疑問でも何でもないことだったのだから。

「何じゃ、お主知らぬのか? トロイアでは女しか生まれぬ、というのは常識じゃぞ」
「常識……」

 老人の言葉を受け取った『ラベンダー』の瞳が、僅かに曇った。顔を伏せた拍子に、かき分けていた前髪が額へと滑り落ちる。その髪を掻き上げながら、青年は言葉を搾り出した。

「知らないんです。この世界のことも、自分のことも。私には、記憶がないんです」
「む……そうか。悪かったの」

 老人も僅かに顔を曇らせる。その表情の奥底に微かな殺意がよぎったことに、『ラベンダー』が気づくことはなかった。


「雲が出てきましたね」

 風の温度が少し下がったのに気づき、青年が空を振り仰ぐ。先ほどまですっきりと晴れていた空は、その領域を灰色の雲に侵略されつつある。が、彼の周囲の気温が下がり始めているのはそれだけが原因ではないようだった。
 『ラベンダー』と老人の周囲を、人ならぬ者の気配が漂っている。ゆっくりと、しかし確実に彼らを取り囲むその気配に気づいた青年が、老人に視線を戻した。

「御老人、そろそろ街に……?」

 戻りましょう、という言葉を『ラベンダー』は思わず飲み込んだ。たった今まで確かに存在していたはずの老人の姿が、跡形もなく消え失せていたのだから。

「おかしいな……御老人! どちらに行かれましたか?」

 数歩進み出て、周囲に目を配る。だが、どこにどうやって隠れたのか老人の痕跡は見つからない。首を捻りながらもう数歩踏み出そうとしたその時。
 腐臭が、『ラベンダー』の鼻を突いた。

「……っ!」

 反射的に飛び退いた青年が蹴った地面を、ゾンビの腐りかけた手が抉った。その拍子に、肉片が大地に貼り付き汚す。
 とっさに身構えながら『ラベンダー』は自らの周囲を見渡す。ゾンビ、グール、ソウルなどの混成部隊が、彼の周囲を取り囲んでいる。青年には名称こそ認識できなかったものの、それらがアンデッドモンスターであるということは十分に理解できた。

「……亡者か。眠らせてもらえぬとは、哀れな」

 『ラベンダー』はぽつりと呟き、両手の中に小さな炎の塊を出現させた。炎というものは汚れを浄化させる力であり、アンデッドが忌避するものの一つである。

 うがああああ!

 死者が、一声吠えた。それと同時に亡者の群れは、唯一の生者である『ラベンダー』を己らの仲間とすべく一斉に襲いかかってきた。が、それらを迎え撃つは青年の手から広げられた炎の膜だった。

「火よ舞い踊れ。我が敵を焼き尽くせ、ファイガ!」

 ひぃぃいいいい……

 激しく燃える、腐った肉や乾いた骨。ぱちぱちと火が弾ける音の中、実体を持った死者たちは灰となり、風に乗って散らばっていく。

 しゃあああっ!

 炎を突き破るように、実体のないスピリットやソウルの集団が飛び出してきた。彼ら瘴気を身体となす類のアンデッドは、通常の死者とは違い火の力を吸収して己の精気とする。肉体を持つ者と持たぬ者の違いであろうか……実体のない死者たちは、あろう事か自らがファイアの呪文を禍々しい声で詠唱した。

「っ……ならば」

 自分の魔法が効かないことに僅かながら焦りつつも、素早く頭を切り換える。思考するより早く、唇は別系統の呪文を紡ぎ始めた。空へとかざした右手を、地面に叩きつけるように振り下ろす。

「降れ雷、我が敵を貫け! サンダガ!」

 一瞬、音が消えた。正確に言えばあまりの轟音に、それ以外の音が全てかき消されてしまったのだが……空をすっかり覆ってしまった黒雲から降り注いだ雷は、瘴気の塊をあっさりと打ち砕く。弾け飛んだ僅かな邪気さえ、爆ぜる雷光に触れて跡形もなく消え去った。

 雷鳴がやんだ森は、しんと静まりかえっている。注意深く『ラベンダー』が周囲を伺うが、瘴気はおろか腐肉の欠片すらその場には見受けられない。じっと気を張り詰めて探り、敵意の断片まで失われたことを確認してから青年は、ほっと胸をなで下ろした。

「ふう、参ったな……あの人は無事だろうか」

 敵の気配が消えたところで老人のことを思い出し、再び周囲に視線を巡らせる『ラベンダー』。と、視界の端に一瞬だけ、人影が映った。そして、同時に響く低い声。

「魔法の腕前はさすがですね、『ラベンダー』」
「!?」

 声のした背後に向き直る前に、青年の脳裏を暗い闇が覆う。魔法の作用だと沈み込む意識の中で察した『ラベンダー』だったが、その意味を問う前に彼の意識は闇の中に沈んだ。

「お手数をおかけしました。けれどこれで、終わりにできますね。テラ」

 倒れ込む青年の身体をふわりと受け止め、声の主はうっすらと笑みを漏らした。ベージュのローブを纏う青年の笑みに、あの老人は僅かながら嫌悪の表情を形作った。


 『ラベンダー』が意識を取り戻したとき、周囲の風景は一変していた。気を失うまでと、森の中という点で変わりはない。しかし、その風景を形作る色がまったく異なっていた。
 最初は、深い緑。今は、色あせた無彩色。

「……ここ、は……?」

 まだ、頭の中にぼんやりと霞が掛かったような感覚がある。軽く頭を振り、目をしばたたかせながらゆっくりと立ち上がり、青年は自分の今いる場所を確認しようとして……背後から投げかけられた声に、その作業を中断させられた。

「トロイアの森です。人払いを仕掛けてありますから、我らの他には誰もいませんよ」

 声のする方向へ振り返った『ラベンダー』の視線の先には、青年と老人が立っていた。老人は先ほど『ラベンダー』が探していた当人に違いない。そして、青年は……

「……スカルミリョーネ、ですね? ルビカンテが言っていた」

 エブラーナの城で、火の化身たる青年が口にしたその名を、『ラベンダー』は復唱していた。トロイアの『土』のクリスタルに呼ばれるように目覚めた、大地の精霊。

「はい。覚えておいでですか?」

 フードの下でにやりと笑みを浮かべるスカルミリョーネ。その視線は、どこか『ラベンダー』を試すようにも感じられる。

「いえ。彼から名前だけは伺っていましたから」
「なるほど……けれど、ルビカンテは私が今このような姿をしていることを、あなたに話しましたか?」

 鋭い指摘。『ラベンダー』は、そう言われて気づいた。

 ──恐らくはスカルミリョーネが、あなたを待ち受けております。

 ルビカンテは、そうとしか言わなかった。大地の精霊がどのような姿をしているのか、彼は口にはしていない。
 それは、会えば分かると考えたからだろうか。
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