LAVENDER 6.SILENT BEGINNING
その日は、セシルの二十二歳の誕生日だった。とはいえ元々孤児であるセシルの正確な誕生日は知られていないため、先代のバロン王がセシルを保護したその日が誕生日として記録されているのだが。
過去の事情はともかく、当日は若き国王を祝ってバロンは盛大に盛り上がった。戦乱から二年、まだ明るい話題の少ない国内にあって民の意識を鼓舞するには最適の話題である。
城内でも質素ながらパーティが催され、民にも食事が振る舞われた。そうして賑やかな一日が終了し、静まった夜半になって……異変は起きた。
「申し上げます! 急激な寒波が町を包んでおります、これは異常です!」
見張りの兵士が急を告げる。セシルたちが跳ね起きたその頃には既に城の濠の表面が凍り付いていた。町の水路なども既に氷結しており、緑の木々も冷たい空気に触れ力を失い始めていた。
「外には出られそうか?」
「いえ、無理です。城と町を取り囲むように黒い闇のようなものが出現しています!」
兵の報告を受け、セシルは一瞬思考を巡らせた。が、この状況で取るべき方法は一つしかない。若き国王は自らを奮い立たせるようによしと頷き、すぐさま指令を出した。
「ミシディアに連絡、避難民の受け入れを要請してくれ。残りの兵士は市民を起こし、デビルロードを伝ってミシディアへの避難を開始させろ」
この頃には既にデビルロードとして使われている空間はかなり安定しており、一般人が使用してもよほどでなければ問題がないことが確認されていた。故に、この方法が取られたのだ。
「慌てるな! 一家族ずつ確実に脱出するんだ。親子、きょうだい、離れないように」
そして、国王の責任として市民の脱出を、最後までじっと見届けていた。セオドアを抱いたローザ、彼らが心配でならないシドと共に。
最後に残った彼ら四人がデビルロードに入ろうとしたその時、浸食を続けていた冷気はついに彼らに襲いかかった。白い霧が足元からふわりと舞い上がり、セシルの身体を包み込む。
「ローザ! シド、ローザを!」
「こりゃローザ、早う来い! セシル、急げ!」
ローザを抱え込んでシドが亜空間に飛び込んだのを見届けると、セシルは外側からその扉を閉じた。ばたん、という何でもないはずの扉の音が、絶望的に響く。
「セシル!」
セオドアを胸に抱いたまま叫ぶローザ、そして彼女を止めるシドの姿は、ほんの数瞬後にはミシディアの街中に転送されていた。彼らの目前にあったバロンへの道は、氷結した扉という形で機能を停止させられていた。
「──そして、翌朝にはあの黒雲がバロンを覆ってしまっていたんです。シドも脱出の時に古傷を痛めてしまっていて、今は絶対安静です」
そこまでを喉をつかえさせながら語り終えると、ローザは大きく溜息をついた。セオドアの髪を撫でつけ、必死で落ち着こうとしている彼女を、『ラベンダー』はただ見ていることしかできない。
ふっとローザが顔を上げた。青年と視線が絡まると、慌ててその線を外すように顔を背けた。その目尻に、うっすらと涙が浮かんでいるのが『ラベンダー』にも分かる。
「……ごめんなさい。落ち着かないと、あなたの顔を見ていられない……セシルを思い出してしまって……」
「そんなに似ていますか?」
「……ええ。よく、似ています」
青年の問いに視線を外したまま頷き、何度も深い呼吸を繰り返す。そういった行為を繰り返し、やっとローザは『ラベンダー』と視線を交わすことができた。その青年の肩越しに見えた風景に、彼女がはっと目を見開いた。
「どうしました?」
尋ねながら『ラベンダー』が振り返る。彼らの視界に入ったのは、村の外に白金の鱗で全身を覆ったドラゴンが着地しようとしている姿。その背に、黒い甲冑の青年がいることはここからでもはっきり見える。その背に寄り添っている女性の姿も、彼らの目にはしっかりと捉えられていた。
「カインだわ。戻ってきたのね」
「カイン……ハイウィンド?」
ローザが呼んだ名に、『ラベンダー』が反応する。知らないはずの名を自分が口にしたことに、青年は思わず唇を押さえていた。僅かに間を置いて、ローザは頷く。青年が補完した名は、彼の男の正確な名であるから。
「はい、そのカインです。……思いだしてきているのね、きっと」
立ち上がり、右の腕でしっかりとセオドアを支えながらローザは、空いた左の手を『ラベンダー』に差し出した。
「行きましょう。彼はセシルの親友です、きっと力になってくれるわ」
「はい」
青年もその言葉に微笑み、そっと手を取った。
カインは、騎竜として手に入れたプラチナドラゴンの背から風精バルバリシアと共にふわりと降り立った。黒い甲冑に太陽の光が当たり、無彩色の中に隠された紫の色を浮かび上がらせている。竜をかたどった鎧を外すと、豪奢な金髪が風に乗って舞い踊った。
ドラゴンを空へと還し、村の入口に視線を向けたカインは軽く手を振った。自分の背後で同じように手を振っているバルバリシアと頷き合うと、早足で近づいていく。
「カイン!」
「ローザか……ん」
幼なじみで、かつてはセシルから奪おうとしたこともある女性。その胸に抱かれた赤子に、カインはびくりと反応した。その横からひょいと顔を出したバルバリシアが、白い手でその髪を軽く撫でる。
「あら、可愛い子ね〜」
「……セシルとの子か」
「ええ、セオドアっていうの」
少しだけ幸せそうな表情を浮かべて答えるローザに、カインは眼を細めた。相変わらず、彼の心のどこかには彼女への未練があるらしい。風精は知ってか知らずか、何も言わないのだけれど。
バルバリシアの視線が、ローザと連れ立っている『ラベンダー』に注がれた。彼はというと、どこか戸惑ったような表情を浮かべている。
「あなたは?」
「ああ、ご挨拶が遅れましたわね。私、風の精霊バルバリシアと申します。よろしく」
「バルバリシア……よろしく。『ラベンダー』です」
春の日差しのように明るく微笑み、風をまといながら優雅に一礼する彼女。名を名乗られて、『ラベンダー』も記憶の欠片を掴んだのだろう、やっと表情を緩めた。恐らくは、所在のしれない塔に居を構えていた、その頃の記憶。
ふとカインが眉根を寄せた。元々バロンの出である彼の見知った人物が、ミシディアの村のそこかしこを歩いているのだ。奇妙といえば奇妙な光景であろう。
「何かあったのか? ローザ。あの家族、知った顔だ」
「バロンの人ってこと? 何かあったのは分かるけど」
風精が首をかしげる。ミシディアとバロンを繋ぐデビルロードの存在さえ知っていれば、距離の離れた二国間の移動に何ら不思議はない。問題は、何故その移動が起きたか、という一点。
「ええ、実はね……」
そこから、ローザは『ラベンダー』に語ったのと同じ話をもう一度することになった。最後まで一通り聞き終えて、カインは愛用の槍を力一杯握りしめる。
「……ち、そういうことか」
「シルフたちも何も言ってなかったわ。あの子たちも、そこまで事態が深刻化してるなんて分からなかったのね」
口を押さえ、考え込む表情になるバルバリシア。彼女がシルフから伝えられたのは『ラベンダー』のミシディア来訪のみ。バロンの異常は見ればすぐ分かる類のものだが、その内部については彼女が察知することはできない。かの国にはクリスタルは存在しておらず、その力を借りることのできる精霊たちには手の出しようがないのだ。
「だけど言い訳にもなりゃしないわね。私だって仮にも風の精霊……このくらいのこと気づいてなくちゃ駄目なのに」
顔を押さえ、ぎりと歯がみする。整った顔立ちが、後悔の念で歪むのはカインならずとも見ていられない……ローザはそんな思いで言葉を紡いだ。
「気にしないで、バルバリシア。前触れなんて無かったんですもの、仕方ないわ」
「……前触れはあったのよ。もう少し深く考えれば良かったんだけど」
「それは本当ですか?」
彼女の言葉に、眠っているセオドアを除く全員が視線を集中させる。その中の一人……花の名を持つ青年に視線を固定し、風精は口を開いた。
「ええ。『ラベンダー』、あなたの来訪が、前触れだったのよ。もしくは警告」
彼が言葉を失うほど驚愕することを分かっていて、あえて。
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