LAVENDER 7.FROZEN EARTH
 『ラベンダー』の意識が、急速に浮上する。頭の中に霞が掛かったようなぼんやりとした状態のまま、ゆっくりと上体を起こす。

「……ここは?」

 見渡す限りの草原。少し離れたところには人里でもあるのか、手入れの行き届いた林がその静かな姿を見せている。どこかで見覚えのある光景だと青年には思えたが、この状況にあっても彼の過去はその扉の鍵を開いてはいなかった。

「おじちゃん、だいじょうぶ?」
「!」

 唐突に背後から、たどたどしい声が掛けられる。慌てて振り返った青年の前にいたのは、どこかセオドアに似た幼子だった。『ラベンダー』と同じ色のふわりとした髪の毛が、草を撫でる柔らかい風に揺れている。

「おじちゃんのかみのけ、ぼくとおんなじいろだね」
「……そう、だね」

 無邪気な笑顔に、青年も知らず笑みをこぼした。地面から上体だけを起こしている『ラベンダー』の視線は、その子とあまり変わらない高さにある。

「ぼく、セシル。セシル=ハーヴィ」
「え?」

 唐突に、少年が名乗った。青年があまりに言葉少ななのは自分の名を知らないから、とでも幼心に考えたのだろうか。

「セシル、っていうのかい?」
「うん」

 『ラベンダー』の確認とも言える問いにも、その幼子は大きく頷いた。
 言われてみれば、セシルの息子であるセオドアによく似た、『ラベンダー』と同じ色の髪を持つ子供。それが幼いセシルの姿であると言われれば、否定することはできない。そして青年は、その面影を確かにどこかで見た記憶があった。
 じっと自分を見つめたまま言葉を失っている青年を、小さなセシルは不思議そうに見つめる。それから、ふわりと笑顔になって自分の方から言葉を紡いだ。

「おじちゃんはなんていうの? おなまえ、おしえてください」

 そう問いを投げかけられて初めて、青年は自分の方が名乗っていないことに気づいた。苦笑を浮かべつつ、改めて今の自分に付けられた名前を、胸を張って名乗る。

「……私は『ラベンダー』。そう呼んでくれればいい」
「ラベンダーのおじちゃん? うん、わかった」

 小さなセシルの手が、ぺたりと『ラベンダー』の頬に当てられた。ちょうど体温が同じくらいなのか、触れられたという感覚以外には何も感じられない。

「あ」

 はっと何かを思い出したように、少年が口を開けた。きょとんと見つめる青年に、小さなセシルが少しだけ慌てた口調で問いかける。

「あのね、さがしものがあるんだ。おじちゃん、しらない?」
「捜し物? 何を探しているんだい? セシル」

 本来ならばそんなことをしている場合ではない。が、このとき『ラベンダー』の思考からは共にやってきた仲間たちのことはすっぽりと抜け落ちていた。自分がその場にいる理由すら、まったく気にならない。

「うん、あのね」

 にこっと笑った幼子の表情が、ぐにゃりと歪んだ。
 ──それすらも、青年にはまったく認識できなかったのだ。


 光の差し込んでいた穴から抜け出すと、そこは玉座の間だった。召喚獣たちに囲まれ、ゆっくりと地面に降り立った戦士たちの視点は、一所に集中していた。
 ローザたちが知るそのままの光景の中に、これだけは以前にはなかったはずのモノ。
 玉座を挟み込むようにそそり立つ、二本の水晶の柱。
 彼らから見て右手に淡い琥珀色、左手に透き通った水の色と各々違った色を持つ柱の中に、二人は眠っていた。

「……セシル!?」
「『ラベンダー』!」

 ローザが駆け寄った水の色の柱には、白い鎧をまとったままのセシルが。
 リディアが見上げる琥珀色の柱には、黒と紫のローブをまとう『ラベンダー』が。
 自らの身体を抱え込み、何かから己を守るような姿のまま水晶の中に封じ込まれている。

「何だ、これは……」
「まさか、マジで二人ともクリスタルにする気かよ」

 カインが唇を歪め、エッジがわざわざ口布を外してまで唾を吐き捨てる。びちゃりと水音がした床のその先に白い爪先を一瞬見たような気がして、青年ははっと顔を上げた。

「やあ。みんな、割と早かったね」

 そこには、セシルが立っていた。淡い色の髪、白い鎧……姿だけを見るならば、彼は現バロン国王セシル=ハーヴィその人、としか言いようがない。
 そう、姿だけを見るならば。
 聖騎士であれば、両の瞳に宿る邪悪な炎は何なのか。
 聖騎士であれば、その全身から吹き出すおぞましい邪気は何なのか。
 答えは一つ。

「ふざけないで。あんたなんかセシルじゃないわ」
「へっ、てめえのどこがセシルだよ。上っ面だけ似せてもバレバレだっつーの」

 リディアの言葉に幻獣たちは殺気を漲らせ、エッジは愛用の双刀を逆手に構える。カインは無言のまま槍の穂先を、聖騎士の姿を真似た何者かに突きつけた。

「……セシルと『ラベンダー』を解放しなさい。あなたに勝ち目はない」

 そして、両の手に白の光を纏わせながらローザが毅然と言い放つ。愛する夫の姿を写した不届き者を無傷で帰す気など、彼女には微塵もない。
 だが、その全ての殺気を『セシル』は平然と受け止めた。まるでその殺気ですら、己の活力となるかのように楽しそうに笑う。

「ふうん、これでもかい?」

 うっすらと細めた眼には、彼らを嘲る感情が浮かび上がっている。その笑みを顔に貼り付けたまま、『セシル』は右手を軽く振った。

「……ぁ……あ、ぐ……」

 柱の中に封じ込まれた青年が微かに呻く。それと同時に、琥珀色の柱が微かな震動を始めた。地の底から鳴り響いてくる重低音と共に、玉座の間全体を揺らすほどにその震動は激しくなっていく。

「何をする気だ、貴様!」
「その身体に教え込んでやるだけさ。この世界は僕のものだってね」

 震動にも負けず槍を構え直したカインの叫びに、聖騎士の姿をした邪悪はあくまでも快感の笑みを浮かべながら答えた。


 周囲は既に薄暗くなっていた。幼子を見つめている青年は気づいていなかったのだが、自分たちのいる風景もいつの間にか草原からどこかの城の一室に変貌している。ひんやりとした風が自分の髪を揺らすことにも、『ラベンダー』は気づかない。頭の中のどこかが、幼いセシルに引きつけられたまま凍り付いてしまっている。

「うん、あのね」

 小さなセシルは、歪んだ笑みの面をかぶったまま『ラベンダー』の頬を両手で包み込んだ。ひやり、と冷たい感覚が青年の皮膚に流れ込み、その意識をはっきりと呼び覚ます。が、その覚醒は一瞬遅かった。

「……そなたの、力」

 幼い子供の口から発せられたのは、地の底から響いてくるようなおぞましい声。その時になってやっと『ラベンダー』は、目の前の存在がセシルではない何かだということに気づいた。そこまで気づけないほどに、彼の感覚は鈍らされていたのである。

「……っ!」
「よくぞ戻ってきたな、我が人形。そなたの力さえ手中にすることが叶うならば、この世界の全ては我が手に収まる」

 『セシル』の姿をしたそれは、本来のセシルが持つはずのないどす黒い両目で青年の意識の奥までを見通す。いつの間にか『ラベンダー』の身体は魔力により拘束され、指先を動かすことすら叶わない。

「誰が人形だ……私はっ……」
「そなたは人形だ。我が念のままに動き、下らぬ虫けらどもを焼き払うために生きる人形だ」

 幼子の顔で、姿で、『それ』は青年を嘲笑う。魔力による威圧だけで『ラベンダー』の全身を拘束し、その視線で意識までをも支配しようとする、何か。
 しかし、青年は意志の力だけで侵略を押し止めている。そうして『それ』を睨み付け、拒絶の言葉を吐き出す。

「ふざけるな……そのような世迷い言、私には効かない。貴様、何のために民を惑わし、町を襲うか」
「我が元で殺戮を繰り返しておきながら何を言う」

 青年の殺意も、『それ』にとっては心地よい風にしかならないのか。愛らしい造形であるはずのその顔は歪みきり、身動きの取れない『ラベンダー』をただ嘲る。

「そなたは暗黒に堕ち、星を戦の中に追い落とした。今更正義などという妄言に振り回されたとて、過去はほれ、しっかりとその身に染みついておるわ」
「……戯れ言を……」

 目の前で紡がれる言葉は、いくら青年が拒絶してもその耳に潜り込む。ゆっくりと、ゆっくりと青年の精神を蝕み、彼の思考能力を削り落としていく。

「戯れ言などではない。忘れさせたのは月の民か? 愚かなことを」

 にい、と幼子が眼を細めた。歪んだ口元からは瘴気が吐き出され、青年を包み込んでいく。鼻孔から、涙腺から、三半規管から……そして、皮膚や髪の毛からすら潜り込んでくる瘴気を、青年が払いのけるすべはない。
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