LAVENDER 7.FROZEN EARTH
「リディア、は……こんちくしょ……」

 それでも、重力に逆らいながら必死に背後を振り返ろうとするエッジ。意識を失った少女にまでこの重力が及べば、生命に関わる……それだけが、エッジの身体を動かしている。
 彼の視界の端に、ちらりと白の爪先が映り込む。身体が重すぎて頭だけをどうにか動かしたエッジの視界に入るのは、冷たい笑みを浮かべた『セシル』の姿。

「案ずるな、ピンポイントだ。召喚士には影響させておらん……まあ、この後でどうするかまでは考えが及んでおらんがな」
「てめえ……ぐ、ふっ!」


 ──エッジ

「……え?」

 唐突に、名前を呼ばれた。三つの異なる声で。
 一つは、背後にいるはずの緑色の少女。

 ──あんたなんか大嫌い。死んじゃえ

 少女は満面の笑みを浮かべながらそんな台詞を吐いて、さくりと青年の背を刺した。


 二つは、機械仕掛けの塔で失われたはずの懐かしい姿。

 ──我らと共に行こう
 ──地獄へ

 彼らは人ならぬ姿に変じ、ぞぶりと息子の首筋に食らいついた。


 ぶん、と首を振る。それすらも今のエッジには苦痛を伴う作業ではあったが、ともかくそんな簡単な動作だけであっさりと幻影は吹き飛んだ。重力に押さえつけられたままの青年の身体には、傷一つついていない。

「何、しやがった……ざけんな、つーてる、だろ……っ!」

 ぎろり、と殺意を籠めた目で見上げるは聖騎士の姿を写した敵。エッジが自分を睨み付けたのに「ほう」と僅かながら目を見開き、そして満足げに笑みを浮かべた。

「面白い。幻が効かぬならば、しばし見せ物に付き合ってもらおう」

 薄く笑みを浮かべる『セシル』の顔を、琥珀色の光が照らし出した。『ラベンダー』を封じた柱がその全体を鈍く光らせ、玉座の間全体を琥珀色に染めている。

「んだとぉ……見せ物だぁ?」

 エッジが眉をひそめた瞬間、嬌声じみた悲鳴が上げられた。

「……い、いやぁ!」
「へっ?」

 幾分重力が緩んだのか、起き上がるまではいかないものの悲鳴のした方角に身体を向けることは容易にできた。そこには、声の主……ローザがいる。屈み込み、自分自身を抱きかかえ、がくがくと身体を揺らしている。

「ひ、あ、あぁ……ごめん、ごめんなさいっ、カイン! あ……やめて、わたし、わたしセシルがっ……」

 どう聞いても、この場にはそぐわない言葉。ちらりと見えた美しい顔は紅潮し、汗で乱れ……はぁはぁと犬のように舌を出して息をしていた。
 顔をしかめながら振り返ったエッジに、『セシル』は聖騎士本人であれば絶対に浮かべないであろういやらしい笑みを浮かべ、口を開く。

「夫の前で、貞淑な妻が他の男に無理矢理脚を開かされる。あの女には耐え切れまい?」
「な、何やってんだてめえ!? んな妄想見せてるってか!」

 その下卑た台詞に、青年が顔色を変えた。今、ほんの一瞬自分が流されそうになった忌まわしい幻影。それが……今聖騎士の姿をした穢れた男が口にした腐った情景が、ローザの脳裏に直接叩き込まれているのだとしたら。

「幻、とでも言ってもらおうか。ははは、女の悲鳴は実に心地よい響きだ」
「ざけんな悪趣味野郎!」

 相変わらずエッジの肉体は重力によって床に押し付けられ、身動きが取れない。それでも彼は必死に視線を巡らせ、状況の打開を図る。差し当たっては、先ほど彼女が悲鳴の中で呼んでいた男を探す。

「カイン! てめーも何とか言えっ! お前変な妄想に使われてるぞ!」
「…………あ……セシ、ル……俺に、死ね、と……」

 聴力の良い耳が虚ろな声を捉えた。無理矢理姿勢を変え、エッジは声の主を何とか視界に入れる。
 カインはぼんやりと佇んでいた。愛用の聖槍は既に手の中になく、床に転がっている。こちらからちらりと見えた青い瞳は何も映しておらず、すっぽりと感情が抜け落ちている……それはあの封印の洞窟で、再び敵の操り人形と化した時と同じ表情だった。

「あー、お前もか! 前みたく引きずられてんじゃねーよっ、このワンパターン野郎っ!」
「救いに来たはずの親友が、脇腹に刃を差し込んだぞ。何、以前は逆の立場だったのだ、自業自得であろう?」

 名を呼ばれた青年と同じ姿をした醜悪な『それ』が、さらに顔を歪めて笑う。とても楽しそうに、愚かな男を嘲るように。その表情を、エッジは睨み付ける。

「あいつの気持ち分かって……いや、分かってっからやってんだな、てめえ」

 バブイルの巨人から自分たちを外へと導いた竜騎士。エッジとはあまり長いつきあいではなかったし、そもそも出会って程なくカインは操られ、闇のクリスタルを奪い姿を消した。だからか、エッジはカインのことをどこかで一歩突き放して見ている部分がある。けれど。
 ゴルベーザがゼムスの支配から逃れ正気を取り戻したことで、彼がカインに掛けた洗脳の術も効力を失い解けた。崩れ落ちようとする巨人の中を駆け抜け、友を必死で救った彼の落ち込みようは半端では無かった。それはカインを冷めた目で見ることのできるエッジにもよく理解できたし、だからこそ自分はあえて彼を奮起させるような言動を取った。

「くそったれ。ふざけた真似しやがって」

 そして今、カインの自意識に割り込んで悪夢を見せつけている醜悪な敵に、ぺっと唾を吐き捨てることもしてみせる。そういう態度でしか示せないのが自分だと、エッジは常々心に言い聞かせている。

「やめてぇ、こんなっ……あ、ああ、カインっ、セシル!」
「すま、ない……俺は……」
「どうだ、良い見せ物だろう?」

 正気を失いつつあるローザとカイン。意識のないリディア。身動きの取れないエッジ。
 彼らを順に見比べながら、『セシル』は僅かに首をかしげた。視線の先にいるのは、エブラーナの若き王。

「はて……何故そなたには効かんのかな」
「へっ……俺様は、強え……からな」

 ──つーても拙いな、こりゃ。
 せいぜい強がってみせつつも心の中だけで僅かに弱音を吐き、エッジは考えを巡らせた。
 自分は耐えきれる。リディアに危害が加えられたら保証の限りではないが、周囲が苦しんでいる状況であっても耐えきるのが王の務めであり、自身の務め。少なくとも、エッジは二年前の戦乱でそれだけの経験を積んでいる。本来ならば他の三人も……セシルも同じはずだが、その辺りは元々のタフさが関係しているのだろう。
 恐らく、リディアはまだしばらくは無事だ。『セシル』はエッジの精神の頑丈さに感心していた……そのエッジを壊すために、彼女は最後に取っておくはずだ。
 問題は意に染まぬ幻覚を見続けるローザと、あの様子からして自意識を保つことも難しくなっているであろうカイン。そして力の放出を強制されているセシルと『ラベンダー』。
 幻を見せつけている『セシル』の力の源は……考えるまでもなく、封じ込まれた二人の青年だろう。彼らに宿るクリスタルの力を悪用し、心をえぐり取っている……となれば、今たった一人正気である自分が為すべきことは、つまり。

「ええい……このやろー! セシル、『ラベンダー』! てめーら、早く……起きやがれ、この馬鹿!」

 仲間の眠りを覚ますこと、でしかない。
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