LAVENDER 7.FROZEN EARTH
「陛下、どうして僕にはお父さんもお母さんもいないのですか?」

 まだ幼い子供だった頃、先王陛下に尋ねてみたことがある。
 親がいないということは、軍事国家であるバロンでは別段不思議なことではない。カインもローザも、父親を亡くしている。だけどその理由ははっきり分かっていて、二人はそれをちゃんと受け止めていた。
 だのに、僕には物心ついたときには父も母もいなかった。陛下を父と敬い、育てられていることに不平不満はまったくないけれど……だけど、やはりどうしても気になったから。

「さあ、どうしてだろうな。不幸にも亡くなられてしまったのかもしれないし、もしかしたらどこかで生きているのかもしれない」

 ものすごく答えにくい質問だったろうけれど、陛下は僕にも分かるように言葉を選んで、一所懸命答えてくれた。僕を膝に乗せ、ゆっくりと頭を撫でながら。

「けれどセシル、お前の家族はきっとお前のことを愛していたよ」
「どうして分かるんですか? 陛下は、僕の家族に会ったこともないのに」
「私がお前を拾った時のことを考えればね、すぐに分かることなんだよ」
「僕が拾われたときのこと?」

 僕が陛下に拾われた孤児であることは、秘匿事項ではない。陛下自身、その当時のことを時々話してくれることがある。その時の陛下の表情はどこか切なげで……それでも、幸せそうな顔だった。きっと、僕という息子と出会ったその最初の時だったから、なのだと今は分かる。

「そう。お前は我が城に近い森の木の下で元気よく泣いていた。お前はおくるみにきちんとくるまれていて、夜を過ごしてもきっと寒くは無かったはずだよ」

 その僕を見回りの兵士が発見し、ちょうどそこに陛下が通りかかったことが僕の運命を決めた。僕は陛下にセシル=ハーヴィという名を貰い、陛下の元で育てられることになったのだ。

「木の下にいたということは、もし雨が降ってもお前は濡れなかった」

 あまり雨が多いとはいえない気候のバロンだけれど、それでも幼い子供がもし雨に打たれたとしたら身体は冷え、陛下に発見される前に息絶えていたかもしれない。

「そして、城の近くに……見回りの兵士が通ればお前の泣き声が聞こえる場所に、お前はいたんだよ」

 バロンの城からほど近い、木の下。けたたましい声を上げて泣いていた僕を見回っていた兵士が発見し、その場にちょうど陛下が通りかかった。そうして陛下は、僕をその腕に抱き上げてくれたんだ。だけど。

「どうしてそれが、僕の家族が僕を愛していたことになるのですか?」
「うん、そうだな」

 どうしても陛下のお言葉を理解できない僕に、陛下は仕方がないなという顔をして小さく溜息をついた。子供には、その行為にこめられていた家族の愛情というものを理解する思考能力がなかっただけの話なのだけれど。

「……お前の家族はきっと、お前を育てられないことが悲しかったのだろう。だから、誰かがお前を見つけて育ててくれますようにと、それまでお前が風邪を引きませんようにと思って、その場所にお前を置いていったのだ。恐らくね」

 そうして、陛下が説明してくれたその意味にも納得できなかった。今なら、小さな子供を連れることがどれだけ重荷になるかはよく知っている。けれどその頃の僕は、小さい子の一人くらい大したことじゃないだろう、としか思えなかったんだ。

「……それなら、置いていかないでほしかったです」
「まあ、そう言うな。おかげで私と出会えたではないか。カインやローザとも仲良くやっているのだろう?」
「はい。カインとはよくけんかになっちゃって、そのたびにローザに止められています」
「よいよい、喧嘩するのは元気な証拠だ」

 こんな感じの会話が、何度か続く。それはきっと本当の父と子の会話のようで、お互いに言葉をやりとりすることで自分のどこかに空いた穴を埋めようとしていたのかもしれない。
 そうして何度目かの会話の後、陛下は僕にこう言われた。

「……よいか、セシル。もし、お前の本当の家族が生きていて、これから先会うことになったとしたら……相手を責めてはいけないよ」

 じっと僕の目を見つめて、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を繋ぐ陛下。僕はだだをこねることも忘れ、陛下のお言葉を心に刻もうと努力していた。

「きっと、家族も辛かったはずだから。お前が生きていたことをきっと喜んでくれるはずだから。良いな、セシル」
「はい……よくわからないけれど、がんばってみます」

 僕がやっとの事でそれだけを答えると、陛下は「よろしい」と大きく頷いて、僕の頭を何度も撫でてくれた。

 そうして。
 やっと会えた家族は、操られていたとはいえ世界を破滅に追い込もうとしたその張本人で。
 陛下や、たくさんの人を死に追いやって。

 それでもそのひとは僕を見て、嬉しそうに頷いて。

「──よく、生きていてくれた」

 やっと悪夢から覚めたかのように、そう呟いた。


 既に周囲は漆黒の闇と化している。その中で『ラベンダー』は、光の一筋すらも入り込むことのない虚空に視線を彷徨わせている。幼子の姿をした『何か』は、青年の姿を満足げに眺めると一つ頷き、そっと耳元に囁きかけた。

「さあ、闇のクリスタルの媒体。そろそろ、全てを我に捧ぐ気になったか?」

 彼の自意識は過去の断片によってずたずたに引き裂かれ、消し去られようとしていた。それでも『それ』が青年に囁きかけるのは、彼が自らの意志により支配権を明け渡したという事実を手に入れる、自己満足のようなものだろうか。

「…………私、は……」

 『何か』に魅入られたまま、青年は口を開く。言葉が途切れ途切れにしか流れ出してこないのは、彼の微かな抵抗の証であろう。だがそれも、時間の問題と思われた。
 が。


 ──兄さん

 りん、と一つの声が流れ込む。
 自分と同じ、しかして相反する運命を持つ弟の声。
 純白の弟は青年を見つけると、とても嬉しそうに手を差し伸べてくる。
 それはまるで、名もない赤子が微笑みながら自らを守る者にすがるように。

「どうした? 全てを捧げよ。罪の意識が恐ろしいならば、全てを我に委ねてしまえ」

 『何か』が顔を歪めた。
 ほぼ全てをその手中につかみかけていたはずの『ラベンダー』の精神を、誰かの声が解き放とうとする。その介入という行為は、『それ』にとってはあってはならない事態であった。この暗黒は『それ』によって外界から切り離された空間であり、『それ』の許し無くして何人たりとも侵入することができないはずだったからだ。
 だから。

「……私は」

 『ラベンダー』の瞳に光が戻り始めたことも、『それ』の意図せぬ事態であった。


 ──あらら、幸せそうな寝顔しちゃって。すっかり信頼されてるわね、あなた

 りん、と一つの声が流れ込む。
 自分の膝を枕にして、ドワーフの少女が眠っている。それを見て緑の髪の少女は、嬉しそうに微笑んだ。

「確かに、私は罪を犯した」

 青年は、はっきりと自分の口でそう言い放った。ほろほろと涙を流している彼の端正な顔は人形のごとき無表情ではなく、ゆっくりと感情を取り戻しつつある。


 ──ギルバートと仲良くしてあげてね。彼もあなたも、誰かと一緒にいることで強くなれる人だと思うから

 りん、と一つの声が流れ込む。
 彼に命を絶たれた少女は、それでもそう言って笑った。遺した恋人を頼むと。

「恐ろしいのも事実。許されないであろうことも分かっている」

 『ラベンダー』は、ゆっくりと頷く。自分の犯した罪を自らに言い聞かせるように。それはつまり、彼の記憶の封印が既に解かれているということ。


 ──うん、信じる。セシルあんちゃんと違う人だけど、同じような匂いするし
 ──犬じゃあるまいし……ですけど同感です。悪い人には思えませんですわ

 りりん、と二つの声が流れ込む。
 青年を見上げる、幼い双子。何の先入観も持たず、ただ自分の感覚をもって、彼を信じると言い切った。

「それでも、私を信じてくれた人がいる。微笑んでくれた人がいる」

 過去を失っていた彼にとって、ただ信じてくれた幼子たちの言葉はとても暖かなものだった。目の前にいる幼い姿をした『それ』の妖気を押し戻すほどの力を、青年に与えるのはその暖かさ。それに気づいたときには、とうに『それ』の力が青年には届かなくなっていた。


 ──自分をしっかり持ってください。そうすれば負けはしません……我らも守ります

 りいん、と声が流れ込む。
 炎の精霊は告げる。大地も風も水も、全ては青年の味方だと。

「待っている人がいる」

 ゆらり、と青年は立ち上がった。暗黒の中、彼を守るようにふわり、ふわりと淡い光が浮かび上がっている。その微かな光量すら『それ』には眩しすぎるのか、じりじりと後ずさりしながら小さな手を顔の前にかざして光を避けようとしていた。その指の間から光は漏れ出し、暗黒の世界をゆっくりと光の世界に変えていく。


 ──にいさん

 ちりん、と声が流れ込む。
 閉じこめられた水晶の中で眠り続ける、青年の口から言葉がこぼれた。

「だから、私は」

 ぐ、と胸元で手を握りしめる。
 罪を犯し、憎悪にまみれ、それでも弟は自分を兄と呼んでくれた。それだけで青年は、自らがすべき事を心に決めることができる。
 二十年前守ってやれなかった弟を、今度こそは自分が。


 ──早く……起きやがれ、この馬鹿!

 りん、と声が流れ込む
 白毛の王子が叫んだ。愛情の籠もった憎まれ口は、友に対してのみ投げかけられる言葉。

「もう、逃げない」

 逃げるわけにはいかない。彼は、そう決めていた。
 友が、弟が待っているから。
 青年は『それ』を見つめ返し、言い放った。
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