Fate/gold knight 20.くろのわな
 ──目が覚めた時、正直気分は最悪だった。
 頭が泥を流し込まれたように重くて、もう眠くて仕方がない。
 もう一度寝直そうかと思ったけれど、どうやらそんな余裕を持てる状態じゃないようだ。
 空気が違う。
 世界が違う。
 ここはいつも寝ている俺の部屋でも、土蔵でもない。こんなに明るい光が覚醒直後の意識に飛び込んで来るなんて、うちではほとんど覚えがない。それに、冬なのにちっとも寒くない。
 ここは、どこだ。
 そんな違和感の正体を確認するために、必死に意識を闇の中から持ち上げる。

「……うっ……」

 身じろぎしかけて、身体が動かないことに気づく。
 寝返りも打てないし、腕を動かすこともできない。何かに固定されているようで、みしみしと全身がきしむ。
 そもそも、俺の身体は横になどなってはいないらしい。だんだんと立ち上がってきた意識の中、重力と感触で自分が椅子に座っているということが理解できた。
 普段は和室や土間の床に座っている生活だ。勉強だって、座卓でやる。遠坂が使っているような離れでならともかく、椅子に座ったまま寝落ちなんてあり得ない。

「……く」

 金縛りではなく、物理的に拘束されているのだけは分かる。下手に動かすと、腕に痛みが走った。
 そうして、やっとのことで顔を上げた俺の目に入ったものは。

「あは、やっと気がついた? お兄ちゃん」

 豪奢ながらどこか子どもっぽい寝室で無邪気に、そして残酷に笑うイリヤの姿だった。


 腕が背中側に固定されていて、前に回すことができない。軽く揺すってみると、どうやら後ろ手に椅子の背もたれを抱え込むようにして、縄で縛られているらしい。包丁でも投影すれば切れないこともないだろうけれど、さすがにイリヤの目の前でそれは無理だろうなあ。魔力で強化されている訳ではなさそうだけれど、それはつまりこの程度の拘束すら俺は抜けられない、とか思われてるんだな。はは。
 というか、一体何がどうなっているんだ? これは。

「……これは、どういうことだ? イリヤ」

 恐らくは下手人であろう目の前の彼女に問う。「ん?」と一瞬だけ不思議そうな顔をして、イリヤは笑いながらさらりと答えを口にした。

「どういうことも何も、お兄ちゃんをわたしのお城に招待してあげただけよ? 覚えてないの?」
「覚えて……?」

 そう言われても困る、と思いながら俺は、今朝からのことをなるべく詳細に思い出してみた。……時々頭が痛くなる。邪魔しないでくれよ、ちくしょう。

 朝は自分の部屋で普通に目を覚まして、アーチャーと並んで朝食と弁当を作った。みんなで……と言っても桜はいないけど……朝食を取った後、姉貴とセイバーを家に残して登校した。
 学校では当たり前のように授業を受けて……ああ、そう言えば慎二の奴、来てなかったっけな。藤ねえが怒ってたから、無断欠席だったんだろう。何でもいいから理由をつけて休めば、藤ねえだって納得するのにな。
 昼休みはやっぱり屋上で、遠坂やアーチャーと弁当を食べながら作戦会議。とは言っても、結局のところバーサーカーには気をつけよう、くらいで終わったはずだ。そう言えばライダーの結界が再生を始めていたっけか。早めに勝負を付けるべきだ、って遠坂とアーチャーに主張されたな。うん、確かに早く終わらせないと、もし人がいる時間帯に結界が発動されればきっと。
 そんなこんなで午後の授業も終わった夕方、いつものように弓ねえとセイバーが校門まで俺たちを迎えに来てくれた。それでみんな一緒に商店街まで買い物に行って、よほど気に入ったのかまたタイヤキを食いたいとセイバーがだだをこねて、弓ねえと肩を並べて江戸前屋へ向かうのを見送って──

 ──その後、俺はどうした?

「その後、リンとアーチャーが目を離しているほんの一瞬の間に、シロウはわたしと会った。シロウってば、目を合わせただけで簡単に魔術に掛かっちゃうんだもん。もう少し魔術防御をちゃんと固めないと、こんな風にさらわれちゃうよ?」

 まるで俺の心を読んでいたかのように、くすくす笑いながらイリヤがフォローしてきた。一本だけ立てた人差し指を軽く振って説明する様子は、どこか藤ねえと重なる。……だいぶ年齢とか違うのにな。
 それはともかく、つまり俺は商店街までやってきたイリヤに魔術を掛けられて、いそいそとその後をついてきたってことになるんだろうか。まあ、端から見ればおかしいとは思えないだろうな。先導してるのが白銀の髪を持つ外国人の女の子、ってところを除けば。
 だけど、近くに遠坂やアーチャーだっていたはずだ。俺が鈍いのは分かっているけれど、あいつらが気づかないなんてことがあるんだろうか。何しろ、イリヤはこの容姿だから商店街じゃそれなりに目立つはずだから。
 ……終わってから考えを巡らせても、仕方ないことだよな。結論として俺は拉致されて、今ここにいるんだから。ああ、我ながら情けない。

「……何の、ために」

 少なくとも、今動くことはできない。俺ひとり動いたところで、またイリヤの魔力に囚われることは目に見えている。イリヤがさっき言った通り、俺は魔術防御が弱いんだろう。だから、自力で脱出するのは多分無理だ。
 情けないことだけど、セイバーや弓ねえが助けに来てくれるのを待つしかないらしい。
 だったらせめて、少しでも情報を手にしたい。そう思って俺はイリヤに問うたのだけど。

「もうすぐ、セイバーもアーチャーもユミも消えて無くなっちゃうんだよ。当たり前よね、わたしのバーサーカーに敵うサーヴァントなんて存在しないんだから。そうしてわたしは、聖杯戦争の勝利にまた一歩近づくの」

 無邪気な笑みを浮かべたまま、イリヤは残酷な言葉を当たり前のように口にした。
 セイバーも、アーチャーも、そして弓ねえもみんな、バーサーカーの餌食になるのだと。
 幼い子どもは平気で残酷なことをやることがあると言うけれど、これはいくら何でもやりすぎだろう。けれど彼女は、それが当たり前の世界に生きている。それが、恐ろしい。

「シロウは優しいから、そんな場面見ちゃったら悲しくて悔しくてしょうがなくなるもん。だからその前に、わたしのものにしてあげようかなー、なんてね」

 一瞬だけ、赤い瞳が冷たい光を宿す。俺を見つめるイリヤの表情はその外見よりもずっと大人っぽく、そして威厳のある魔術師のもので。
 その彼女の手が、俺の頬をゆっくりと撫でた。瞬間、全身の神経がまるで凍り付いてしまったように温度を失う。俺の身体は一瞬、俺の意識を受け付けなくなった。多分、イリヤの魔力によって。

「……っ、ふざけるな」

 引きつった顔の筋肉を動かしてせいいっぱい睨みを利かせてはみるけれど、しっかり拘束状態の俺ではカッコつけにもなりゃしない。ほら、イリヤだっておかしそうに笑ってるじゃないか。俺の顔を両手で包み込んで、勝ち誇ったように。

「やだぁ、ふざけてなんかいないわよ。今は聖杯戦争の真っ最中で、わたしとシロウやリンは敵なのよ? 敵をコロスのは当たり前じゃない」
「……っ」

 確かに、彼女の言うとおりだ。
 俺と……俺たちとイリヤとは、聖杯を手に入れるための戦争を繰り広げている真っ最中。
 彼女は、俺たちにとっては倒さなければならない敵……バーサーカーを操るマスター。
 コロスまではいかないけれど、最低限バーサーカーを倒さなければ俺たちに先はない。
 だけど、前に戦ったときはこちらがサーヴァント3人がかりだったのに、まったく歯が立たなかった。俺はろくな戦力にもなれなくて、上下の半身が泣き別れになりかけた。

「シロウをコロサナイのは、単純にわたしのわがまま。生命があるだけありがたいんだからね、感謝してよね」

 己のサーヴァントであるバーサーカーの実力を信じて疑わない彼女は、無邪気に言葉を口にすると俺の額を軽く指でつついた。
 無邪気な笑顔は、裏を返せば殺人に罪悪感を持たないことの証明。彼女はそうあるように育てられたんだ。この聖杯戦争を勝ち抜くために。

「……殺せ、って言ったら殺すのか?」
「そうねー。ま、少なくともセイバーやリンたちの方が先だけど」

 あっさりとイリヤは言ってのける。そうでなければ、こんな風に笑って誰かを殺すことを口にするなんてできないだろう。
 魔術師という奴は、こう思考の方向性とか倫理観とかが普通の人間とは違うものらしい。まあ、俺もたいがい考え方はずれてるらしいんだけど。たまに2人の姉貴から指摘されることがあるからなあ。
 ……ああ、そうか。だから親父は、俺に魔術の道を進ませたくなかったのかもしれないな。ただでさえ他の人と考え方がずれている俺を、魔術師というある意味まるで違う方向へと進ませたくなくて。
 きっと親父は、大火災で焼け出された俺に魔術とは関係のない、普通の道を歩んでいって欲しかったんだ。その割に姉貴とか姉貴とか姉貴とか、『方向性がずれる要素』を周囲に残していってくれたけど。

「お兄ちゃんはもうわたしのものだから、勝手にお城を出たりしたら許さないからね?」

 そんな俺の思考を読んだのか読んでいないのかは分からないけれど、イリヤはにぃと赤い目を細めた。俺の顔を一度覗き込み、そのまま部屋を出て行く。


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