マジカルリンリン13
 だけど、俺は前に進んだ。セイバーに促されたからなのか、扉の向こうに引き寄せられたからなのか、分からないままに俺は扉を開けて、中に一歩足を踏み入れた。

「……っ!」

 うわ、床湿ってる。聖堂とはえらい違いだ。この感覚は……そうだ、プール開きの前にプールの底を掃除した、あの時の感覚に似てる。水苔がびっしり張り付いて、取るのが大変なんだよなぁ。滑りそうになりながら、デッキブラシでごしごし擦ってさ。で、たまーに何かの死骸が転がってたりするんだ。溺れたのか、食われたのか。あれはどうも、気持ち悪くて――。

「くっ!」

 臭い。いや、プールもそうだけどそうじゃなくって、今俺のいるこの部屋が。プールみたいな生臭いにおいじゃなく、だからって火薬とかそういったものでもない。これは――薬品。医務室とか病院とか、理科室とかでよく嗅ぐ、ホルマリンみたいな薬品の匂い。

『そろそろ、目も慣れてきたことでしょう。シロウ……どうぞ、じっくりとご覧になってください』

 セイバーの言葉が、頭の中をぐるぐると回る。ああ拙いな、薬品の匂いに酔ったかもしれない。だけど、彼女の言う通り目はこの暗闇に慣れて、周囲の光景を俺の脳に送り込もうとしてくる。

 ぽたっ。

 水滴の落ちる音。
 それが多分、俺にとっての合図になってしまったんだろう。視界が開け、部屋の中の光景が俺の目に飛び込んでくる。
 薄暗い闇の中。
 数分で脳を酔わせてしまうほどにきつい薬品の匂いの中。
 それらは、死体とも見える己の姿を俺にさらけ出していた。

「――あ」

 そう、『死体とも見える』。
 それらは、そんな姿で生きていた。
 薬品に身体を冒され、肉を腐らせ、僅かな水滴を口元に受け、棺の中に収められながら、生きていた。
 声帯は退化し、唇はふやけ、骨と皮だけの姿になりながら、生きていた。

「――――あ」

 四肢を切断され、あるいはすり潰され、あるいは砕かれて。
 棺に溶接され、棺に搾取され、棺に寄生されて。
 それでもなお、心臓は微かに脈打ち、肺は僅かに酸素を取り入れていた。

「――――――あ」

 その中の1人が、もう何年も動かしていないであろう首を動かして、俺を見た。その拍子に、眼球だったものが眼窩からどろりと流れ落ちる。それでも、『それ』は俺を見て。

 ここは どこ

と声にならない声で尋ねてきた。

『彼らは、自らの置かれている状況を知りません』

 ずっと扉の向こう側に立っているセイバーの声が響く。この状況下に似つかわしくない、それでいて最も相応しい、感情を含まない冷ややかな声が。

『ですがシロウ、あなたはこの光景を知っているはずだ。あなたも本当ならば、この中にいたはずなのだから』

 いや、違う。
 彼女は、セイバーじゃない。
 セイバーなら、こんな光景を見て、冷静にそんなことを言っていられる訳がない。

『あなたは衛宮切嗣に救われ、鞘の主となった。しかしそれは和を乱すこと。本来の道筋から外れたこと』

 ――背筋が冷える。
 セイバーじゃないセイバーと、ここに二人きり。
 俺は、偽者に惑わされ、敵の懐に飛び込んでしまったことになる――


  - interlude out -


「ちょっと! もう少しスピード出ないのっ!?」
「無理言わないでください! これでも精一杯飛ばしているんです、わたしの可愛い流星号にあまり無茶をさせないでください!」
「ね、姉さん押さないで……胸が苦しいですっ」

 うー、桜の台詞がむかつくー! そりゃ確かに、ペガサスに3人乗りなんて無茶よ、搭載量オーバーよ! だけど、あろうことか胸が苦しいですってぇ!?

『ああ、うるさいぞ3人共。私からよく見えるから、何なら撃ち落としてもいいが』
「やめんかアーチャー!」

 通信機の向こうから流れ込んでくるあいつの呆れ声に、思わずわたしはがぁーと叫んで返した。うう、向こうでくくっと喉を鳴らして笑ってるよぅ、アーチャーめ。

 で、現在どういう状況かというと。
 本物のキャスターから士郎が拉致られた、という連絡を受けて、わたしたちは彼女の推測する彼の居場所……つまりは綺礼の教会へ向かうことになった。わたしたちがいたのは冬木中央公園だから、山に向かって駆け登ることになる……んだけど、さすがに変身したままで街中を駆け抜けるのは勘弁してよ、ということでわたし、桜、ライダーはペガサスに相乗り、となったのだ。バゼットから貰ったルーンストーンで光りながら高めの高度を維持すれば、はた目にはUFOに見えるだろうし。で、バゼットとアーチャーはわりかし普通の格好をしているから、魔力で脚を強化して駆け抜けて貰っている。いや、別に黒い馬に乗っている訳じゃないけれど。

 しばらくわきゃわきゃ言いながら飛んでいるうちに、丘の上に開けた広場が見えてきた。その中に立っているのが綺礼の教会……で、そこから少し下ったところに石碑が並んでいる場所がある。わたしはそこを指さして、ライダーに指示をした。こんなところ、よほどの用事がない限り人なんか通らない。

「ん、見えてきたわ。教会のそばに外人墓地があるから、そこの手前の道に降下して。そこが合流地点よ」
「分かりました、リン」
『こちらセイバーです。そちらを確認しました』

 時を同じくして、先行していたセイバーの声が通信機から流れ込んできた。ペガサスがゆっくりと草まみれの墓地のそばに着地すると、セイバーとキャスター、そして小次郎が駆け寄ってくる。うん、こーやってまじまじと見ると、あの『キャスター』とは雰囲気がまるで違うじゃない。ちくしょう、外見だけで騙されるなんて。

「さすがに早いな」
「……彼女たちも、聖杯戦士なのか」

 ほんの少し遅れて、アーチャーとバゼットが追いついた。よし、これが現在の最大戦力だ。イリヤスフィールたちはお留守番中だけど、士郎の家の結界がきっと守ってくれる。今はそれを信じよう。

「……リン、彼女は……」

 セイバーが、どこかいぶかしげな表情でバゼットを伺う。そりゃまぁ、迎えに出る前に名前は言っておいたけど、何でくっついてきてるのかまでは分からないか。

「彼女はわたしたちの協力者よ。安心なさい」
「…………分かりました。リンがそう言うなら」

 セイバーは物分かりがよくて助かる。キャスターも、渋々といった顔だけど頷いてくれた。そもそも、そんなこと言っている場合じゃないものね。小次郎は……はなから我関せず? さすがキャスターの使い魔。

「ではバゼット、今一度尋ねる。衛宮士郎……鞘の主があの教会にいることは間違いないのだな?」

 あ、アーチャーが本題を切り出した。やっぱ、自分のことだから気になるのかな……そうだな、絶対。そして、問われたバゼットは――真剣なまなざしで、大きく頷いた。

「アンリ=マユが鞘を必要としているのだろう。マキリの館では失敗した、とはお前の言葉だったな、アーチャー」
「その通りだ」
「ならば、マキリの館にはもうヒトはいまい。アンリ=マユがマキリの屋敷と同じく拠点としているところ、そここそがコトミネの教会だ」
「――な」

 ちょっと待て。アンリ=マユが綺礼の教会を拠点にしてるってことは、つまり……綺礼も、アンリ=マユの構成員ってこと?

「……あ。マジカル『ファーザー』……」

 セイバーがぼそりと呟いて、はっと口元を抑える。そうだ、ギルガメッシュと同じく聖杯戦士の仲間を裏切り、聖杯を独占しようとしたもう1人のコードネーム。セイバーは、そいつの本当の名前を知らない。そして、『ファーザー』という単語には、綺礼の職業である神父の意味もある。

「……私も、コトミネから明かされるまでは知らなかった。ただ、聖杯戦士について相談したいことがある、と言われて……セタンタと共に、あの教会に向かっただけなんだ」

 セタンタ。
 バゼットの大事なひと。
 彼女の左腕と一緒に、綺礼に奪われたひと。
 きっと、それはあいつの事で――そして、わたしたちにひとつ足りないピース。

「……のやろぉ……」

 めちゃくちゃムカツク。
 あいつはわたしの後見役で、わたしの兄弟子で、鮮血神殿の後始末もやってくれて。
 その裏で、あいつはきっとほくそ笑んでいたんだ。
 わたしたちが、誰が本当の敵なのか知らないまま戦っている姿を見て。

「……殴ッ血KILL……!」

 ああお父さんごめんなさい、遠坂凛は口が悪いです。でも許してくださいね、きっとあなたの仇のことだから。
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